第九十九話 「文化祭〜中篇〜」


――AM 9:00

 ついに一般客の入場が始まった。
「さあ、始まったわよ! みんな気合を入れて頑張ってね!」
 高宮が皆に気合を入れる。
「うおっしゃー! やってやるぜぇー!」
「任せろよ! 絶対に大儲けしてやる!」
「あー、可愛い娘が来てくんねえかなー」
 どこに気合が入っているのか分からないような声が男子達の間で上がる。
「頼んだわよ浅田君。さっきまでサボっていた分、きっちり働いてね」
「……分かっている」
 基本的には女子がウエイトレスとして注文を取る役目だったが、
 例外として男子で俺一人だけがウェイターとして採用された。
 経験者だからというのが、主な理由だ。
「愛嬌なんて振りまかなくたっていいから。どうせ黙っていたって向こうから寄って来るわよ」
 高宮はどこか不満げである。
「全く……みんなの総意で決めた事だから仕方ないけど、
 確かにこれだけの逸材を埋もれさせておくには惜しいしね」
「そんな大した事はできないぞ?」
「自覚が無いのが一番の問題ね」
 肩を竦める高宮。それでいて顔に微笑を浮かべている。
「あっ! 最初のお客様が来たわよ! いらっしゃいませー!」

――AM 9:58

 十時前になってトイレと偽って教室を出た。
 客の入りは盛況で、早く戻って来いと何度も釘を刺された。

 ――プルルルルルルッ。

 十時ちょうどに電話が鳴る。
『オ待タセシマシタ。ゲームヲ再開シマス』
「前置きはいい。早くしろ」
 トイレの個室の中で俺は小声で話す。
『ハハッ、焦ラナイデクダサイ』
「こうしている時間も惜しい。ただでさえ仕事で忙しいんだからな」
『ソレモソウデスネ。今回ハ最初カラヒントヲ与エテオキマショウ』
「また謎々か?」
『勿論デス。ドウモ苦手ミタイデスカラネ』
「……お見通しか」
 俺は思わず嘆息する。
『デハ問題デス。鳥ハ鳥デモ、イツモ転ンデイマウ鳥ハナーンダ?』
 相変わらずさっぱり分からない。
『制限時間ハ三時間。午後ノ一時マデデス。頑張ッテクダサイネ』
 通話の切れた携帯電話をポケットに入れて急いで教室に戻る。
(虫だったのなら、和泉が言っていたテントウムシが正解なのだろうが……鳥だと?)
 これはまた、誰かの知恵を借りなくてはいけないだろう。
「ちょっと浅田君、遅いわよ」
 教室に入るなり今度は高宮に注意された。
「なあ――」
 と、尋ね掛けて教室内の異変に気付く。
「ねえ、きみ。ちょっといいじゃないか。俺と一緒に学校を回ろうよ」
「その……困ります」
 後ろの席で外から来たと思われる男性客が、一人の女性客の隣に座ってしつこく声を掛けている。
 男は背の高い二枚目風だが、ちゃらちゃらとした外観からは軟派な雰囲気を漂わせていた。
「きみ、可愛いよねー。ほら、誰かに似てるとか言われない?」
「し、知りません」
 女性客は顔を見せないように首を振る。
 彼女も外から来たらしく、帽子を目深に被って趣味の良いサングラスを掛けていた。
 その間、クラスの人間達はその様子を困ったように眺めているだけである。
「お前止めろよ」
「やだよ。なんか怖そうじゃね?」
「でも、あの娘可愛いなー」
 困ったものだ。
(このままでは店の風紀が乱れるな。仕方ない……)
 俺は仕方なく前に出た。
「お客様。当店でそのような行為は慎んでください」
 丁寧な口調で言ったのだが、男はそれが気に入らなかったのか俺をじろりと睨み付けた。
「オマエには関係無いだろう? 消えろ」
 一転して迫力のある声音で言い捨てる。
「そうもいきません。早くその人を放してください」
「何だ? もしかして、暴力沙汰でも起こそうってのか?
 そんな事をしたらどうなるか分かっているんだろうなぁ?」
「………」
 俺は言葉に詰まる。
「ほら、オマエはウェイターなんだろ? だったら注文を取れよ」
「……何に、致しましょう」
「一番上手いケーキと飲み物を二つくれ。二人で食べるから、ケーキは一つでいいぞ」
「かしこまりました」
 俺は返事をして教室の前に設置された厨房に向かう。
「ちょっと浅田君……!」
「客は客だ。それなりの対応はする」
 何か言いたげな高宮を手で制止して、俺はケーキを男の席に運んだ。
「お待たせしました」
「遅いぞ。待たせすぎた」
「では、ごゆっくり」
 俺は再び厨房に戻る。
「おい待てよ! フォークもスプーンも無いぞ! 手掴みで食えってのか!?」
 男が椅子から立ち上がり、テーブルを手で強く叩きながら叫ぶ。
「もうしわけありません。ただいま――」

 ――カカカカッ!

 四つの高速物体が音を立てて壁に刺さった。
「ひっ……」
 男は磔になったかのように情けない声を上げる。
 顔の両脇それぞれに、フォークとスプーンが突き刺さっているのである。
「どうぞお使い下さい」
 俺は慇懃に言い放った。
 そこで男は、慌てふためいて教室の外へと逃げ出して行った。これに懲りて二度と現れないだろう。
「すげえ……フォークはともかく、なんでスプーンがコンクリートの壁に刺さるんだ?」
 和泉が呆れたような感心したような声を上げた。
「ご迷惑をお掛けしました。大丈夫でしたか?」
 壁に刺さったフォークとスプーン抜きながら女性客に尋ねる。
「あ、うん……ありがとう、涼ちゃん」
 女性客が頭を下げる。
「……えっ?」
 そこで俺は目を瞬かせた。
「私よ、私。分かる?」
「鈴……!?」
 名前を呼び掛けて咄嗟に口を閉じた。
 こんなところで神ノ木鈴乃の名前を口走ったら大騒ぎになる。
 つまり彼女は、お忍びでこの学校の学園祭にやって来たのだ。
「……どうして、ここに?」
 あの時俺は、自分がどの学校にいるかなんて話していなかった筈だ。
「ごめんなさい……どうしても会いたくなって、涼ちゃんの事を調べてもらっていたの。
 そうしたら学園祭だっていうから……それなら会えるかもって……」
 鈴乃は申し訳無さそうに話す。
「あんまり時間が取れなかったし、ちょっと顔を見たら帰るつもりだったんだ。そうしたら――」
「……謝る事なんてないさ。会いたくなったのなら、いつでも会いに来ればいいじゃないか」
「うん……ありがと」
 鈴乃は嬉しそうに微笑む。
「ケーキ、どうするんだ? あんな騒ぎの後だから食べるなんて無理かもしれないが」
「そうだね……。でも、涼ちゃんと一緒なら……」
 恥ずかしそうに鈴乃が呟く。
「分かった。騒ぎのお詫びだ。今、新しいスプーンとフォークを持って来るから待っていてくれ」
 そう言って俺は厨房に戻る。
「どうしたの? あの人、何か苦情とか言ってなかった?」
 高宮が不安そうに尋ねる。
「いや、俺と一緒なら食事をしてくれるそうだ」
「成程、それでさっきの騒ぎはチャラにするって腹ね。全く、抜け目無いわね……」
 不安な表情から一変。腹立たしそうに腕を組む。
「構わないか?」
「いいわよ。うちのサービス外だけど、特別に許可するわ。その代わり、早く終わらせてね」
「ああ。時間は取らせない」
 俺はすぐに席に向かい、鈴乃の隣に腰を下ろした。
「また、助けてもらっちゃったね。人を助けるのが趣味なの?」
「……かもしれない」
 ケーキと紅茶を飲みながら他愛の無い会話を交わす。
「そうだ。こんな謎々を知っているか?」
 俺はふと思い付いて尋ねた。
「鳥は鳥でも、いつも転んでしまう鳥はなんだ……という奴なんだが」
「何それ? 簡単じゃない。鶴よ」
 鈴乃はいともあっさり答えた。
「鶴?」
「うん。だって、ツルっと滑るから鶴でしょ? こんなの小学生でも分かるわよ」
 俺の頭は小学生以下か。
「ありがとう。助かったよ」
「? 何だか分からないけど、それよりアレは大事にしてくれている?」
「『アレ』?」
「ほら、これよ」
 鈴乃が髪を掻き揚げて片耳を見せる。
 そこには、見覚えのあるイヤリングがぶら下がっていた。
「ああ、勿論――」
 と言い掛けて、俺は絶句した。
(確かあの時……恵美にいらないものは無いかと言われて、
 適当に机の引き出しから出したんだよな……)
 最後の記憶には、あのイヤリングは引き出しの中に残っていなかった。
 随分さっぱりしたと思ったくらいだから。
(まずい! フリーマーケットに出してしまった!)
 それを目の前の人物に言える筈も無い。
「どうしたの?」
 急に黙り込んだ俺を見て鈴乃が小首を傾げる。
「いや、その……」

 ――プルルルルルルッ。

 その時、電話の着信音が鳴り響いた。
「はい、もしもし」
 俺のではなく鈴乃のものであった。
「えっ? 今すぐ? でも、約束では――」
 どうやら相手は仕事先の人間らしい。
「ごめんなさい、もう行かなくちゃ……」
 名残惜しそうに立ち上がる鈴乃。
「ケーキと紅茶美味しかったよ。あっ、これお金ね」
「毎度あり。それより、ちょっと待ってくれないか?」
「でも、すぐに行かないと……」
「少しで良い。時間を引き伸ばしてくれ」
 頼み込むと鈴乃は頷いてくれた。
「うん、分かった。マネージャーさんが玄関に居るらしいから、そこで時間を稼ぐよ」
「すまない」
 俺は振り返って高宮に向かって叫んだ。
「急用が出来た! 後は頼む!」
「えっ? ちょっと――」
 俺は代金と脱いだエプロンを高宮に押し付けながら教室を飛び出した。

――AM 10:23

 俺は二年F組へとやって来た。
 恵美が言っていたように、教室の中ではフリーマーケットが催されている。
「恵美!」
「……来ると思った」
 俺を見て恵美は呆れたように呟いた。
「アンタ、何を考えてんのよ? これって大事なものなんじゃないの?」
 俺に見せ付けるように手に摘んでいる物は、鈴乃から貰ったイヤリングの片割れだった。
「うっかりしていたんだ……」
「うっかり、で済ませないでよ。もう、本気で売り払おうかと思ったんだからね」
 そう言って恵美は俺の手にイヤリングを押し付ける。
「すまない……ん?」
 その時俺は、とあるスペースのところに書かれた売り文句を見付けた。

『限定商品! 浅田涼一の愛読書!』

 派手な色使いでデカデカと文字が書かれている。
 その下に並んでいるのは、確かに俺が提供した古本だった。
「……なんだこれは?」
「あー、それね。涼一から貰ったって言ったら、うちの人間が勝手にやっちゃってね」
 悪びれずに恵美が言う。
「それが売れるのよ。悔しいくらい」
「一体どんな客が……」
 聞こうとして、止めた。
「まあいい。それより、この学校に鶴があるところは知らないか?」
 俺は恵美に尋ねる。生憎と俺には心当たりが無かった。
「鶴? 鶴って、あの鳥の?」
「ああ」
「確か、校長室に鶴の彫刻が飾ってあるって聞いた事があるわ」
「……校長室か」
 これはまたやっかいな場所である。
「分かった。邪魔をしたな」
「あっ! 待ってよ! せっかくだからそこの本にサインをしていってよ。
 その方が高く売れるらしいし」
「あのな、俺は忙しい――」
「誰がイヤリングを保管してあげたと思っているの?」
「う……」
 そう言われては仕方が無い。
「ペンを貸せ!」
 俺は十冊以上ある本の白紙の部分に手早く名前を書く。
「うん。ありがとうね」
「じゃあな!」
 校長室の前に、まずは鈴乃のところへ行かなくてはならない。
(まだ居てくれよ!)
 俺は走りながら必死に願った。

――AM 10:45

 校舎玄関に鈴乃は居た。
「あっ、涼ちゃん」
「すまない……待たせた」
 俺は大事に握り締めたイヤリングを見せる。
「手違いで危うく無くしそうになった。本当に……すまない」
 頭を下げて謝罪する。
「でも、取り戻してくれたんでしょ?」
「ああ……」
「だったらいいよ。私、気にしてない」
 鈴乃は眩しい笑顔を浮かべる。
「それで、マネージャーとやらは?」
「もう少しだけ時間を貰って、駐車場に戻ってもらったの。だから、ここには居ないわ」
「そうか……無理を言ってすまない」
「もう、さっきから謝ってばかりいるよ」
 確かにそうだと思い、俺は苦笑する。
「ねえ、涼ちゃん」
「何だ?」
「私の初恋の人……誰か、知ってる?」
「いや……」
 俺は首を振る。
「今ね、目の前に居るの」
「……ひょっとして」
 そこで鈴乃は俺の首に抱き付いた。
「またね……私の大好きな人」
 耳元で囁かれる言葉。
「鈴乃……」
 触れ合ったのはほんの一瞬だけであった。
「もっともっと、素敵な女になってみせるからね! それまで待ってて!」
 外へと駆け出していく鈴乃。
 もう二度と、このイヤリングをなくしたりはしない。
「またな……」
 後ろ髪引かれる思いで振り返ると、俺は廊下を走り出した。

――AM 11:00

 外から校長室の窓を覗いて、中の様子をそっと伺う。
(……誰も居ない。今がチャンスだ)
 運良く鍵は掛かっていなかった。
 もしそうだったら、別の手を考えなければならなかった。
 俺は音を立てないように窓を開けて、こっそりと中に忍び込んだ。
(鶴は……あれか)
 高さ一メートル程の細長い書棚の上に、大きさ三十センチ程の木彫りの鶴が置かれてあった。
 それを手にとってじっくりと調べる。
(不審な点は無いな。では、下の棚か?)
 本を抜き出して調べるが、どれも不審なところは無い。
(やはりここは違うか?)
 電話も来ないので、おそらくそうだろう。
(ならばさっさと退散して――)
 本を全て元の位置に戻したその時だった。
「校長先生。いらっしゃいますか?」
 急に扉が開かれる。
 やって来たのは、教頭先生であった。
「おや、留守ですか……困りましたねえ」
 そう言って神経質そうに眼鏡の位置を直す。
「入院中の生徒が行方不明だというのに……んん?」
 すると教頭は、何かに気付いたように声を上げた。
「窓が開けっ放しでは無いですか。まったく、無用心ですねえ」
 室内に入り、窓を閉めようとする。
(今だ!)
 某蜘蛛男のように天井にしがみ付いていた俺は、閉まり掛けた扉の間に音も無く身を滑らせた。

――AM 11:07

 校長室から脱出した俺は、あてもなく廊下を彷徨いながら考え続ける。
(危機は脱したが……これからどうする?)
 爆発まで残り二時間を切っている。
(鶴か……全く、学校の事をもっと知っておくべきだったな)
 今更悔やんでも仕方が無い。俺はとりあえず自分の教室に戻ろうとした。
「……ん?」
 その時、廊下に張り出されている絵画が目に入った。
 どうやら美術部の展示品らしい。
 より多くの人の目に付く為にこのような場所に展示してあるのだろう。
 机など物が多い美術室では観覧しづらい。
(そういえば、見に来いと言われたな)
 あの三人組はたまに俺の周りをちょろちょろしている。
 何をしたいのかは意味不明だが、当人達は真剣な様子なのが印象に残っている。
(美術部だったとはな……)
 作品群をざっと目を通す。部員が少ないのか、それ程数は多くない。
(それにしても、今朝まで作業をしていたな。
 そこまで切羽詰っても完成させたかったというのか?)
 あの時描いていたのはどれかと思って探すと、それはすぐに見付かった。
 一番端に展示されてある、一際大きな作品であった。
(ほう、これは……)
 俺はついそれに目を惹かれてしまった。
 それが特別に上手というわけでもない。だが、どこか胸を打つものがあった。
 何か、彼女達の特別な思いが込められているような感じがしたのだ。

『WE LOVE R!』

 絵のタイトルにはそう書かれていた。
(R? まさか――)
 もう一度絵を良く見る。
(そういう事か)
 思い至り、苦笑する。
「浅田涼一。こんなところで一体何をしている?」
「……何だ、あんたか」
 俺は振り返って声の主の顔を見る。
「『何だ』とはご挨拶だな。上級生に対して態度がなっていないぞ」
 月原は少々立腹したように言った。
「こっちこそ言いたい。この忙しい文化祭の最中に、
 生徒会長がわざわざ生徒を一人捕まえて話し掛けている暇なんかあるのか?」
「球技大会の時に言っただろう。
 当日の方がやることは少ないとな。それに……生徒会長というのも今は肩書きでしかない」
 寂しげに微笑む月原。
「どういう事だ?」
「立ち話もなんだ。すぐ近くに生徒会室がある。そこへ行こう」
 断る事も出来た。
「……分かった」
 だが俺は、反射的に頷いていた。

――AM 11:11

「まあ、座れ。今お茶を淹れる」
 生徒会室はがらんとしていた。
「他の者達はそれぞれ現場に出ている。入場者の誘導、各出し物の視察、不審者の監視……
 ここに戻ってくる暇など殆ど無い」
 月原が準備をしながら説明をする。
「あんたは?」
「私はここで待機だ。緊急事態でも起きなければ書類の整理くらいしかする事が無い。さあ、飲め」
 目の前に湯飲みに入った緑茶が出される。
「……いただきます」
 本当に『お茶』が出るとは思わなかったが、有り難くそれを飲み干す。
 朝から忙しく走り回っていたので喉が渇いていたのだ。
「それで、さっきの話は?」
「ああ、そうだな。生徒会の人間は、三年の夏になったら殆ど引退する。
 勿論それは受験勉強の為だ」
「じゃあ、あんたも?」
「だが、生徒会長だけはその任が解かれる事は無い。
 余程の事が無い限り、その任を卒業するまで全うするのがこの学校の方針だ」
「しかし、それでは――」
「ああ。だから、実質的な仕事はしなくなる。ここに顔を出す事は殆ど無くなり、
 残った仕事と言えば、卒業までに次の生徒会長を決める事だけだ」
「成程……それでか」
「ああ。今までに無いくらい暇なのだ。
 わざわざこんな日に、ここで受験勉強をするわけにもいかないだろう?」
 肩を竦める月原。
「少し外に出て気分転換をしようと思ったらおまえが居た。
 ならば、そのまま放って置くわけにはいくまい」
 俺は暇潰しの相手という事か。
「どうせおまえも暇だったのだろう?」
 今までに無いくらい忙しいのだが、どうしたら良いのか分からないのが現状だ。
(ここで全てを打ち明けられたら、どれだけ楽だろうか?)
 ふと、そんな衝動に駆られる。
(俺一人だけの力では無理がある。月原なら有効な打開策を思い付くかも知れない)
 そこで思い止まる。
(Xの奴に知られる危険は勿論の事……下手をすれば月原にまで奴の手が及びかねない)
 もしも相談すれば月原は全力で応えてくれるだろう。
 だからこそ、駄目なのだ。
「この学校に鶴は無いか? 校長室以外に」
 結局は、他の者と同様にこれくらいしか尋ねる事が出来なかった。
「鶴だと? 確か……」
 何故とも聞かずに考えてくれる月原。
「……そうだ、プールにそんなレリーフがあったな」
「プールに?」
「ああ。目洗い場の側面に飾ってあったのを覚えている。
 ずっと前にプールを新設した時の記念碑のようだったな」
「そうか。ならば――」
 腰を上げ掛けて俺は思い出した。
「プールは、水泳部の出し物で使われているんだよな?」
 男子シンクロという聞きなれない出し物だったと思う。
 プログラムの予定では、ちょうど今行われている筈だ。
「そうだ。しかも、大盛況らしいぞ。沢山のお客が開演前から並んでいたと聞いている」
「いつ終わる?」
「十時半開始で、十一時半には終わる予定だが……
 そういう出し物は大体予定がオーバーするのが常だな。まあ、もうしばらくは掛かるだろう」
「……そうか」
「何が面白いのかは分からないがな。私など、プールに近付くだけで嫌になる」
「水が嫌いなのか?」
「ああ。昔、ちょっとな」
 人が大勢居る中で爆弾を探し回るのは難しいだろう。
 幸いにも午後一時の爆破時刻までには居なくなるだろうから、今すぐと焦る必要は無い。
(そうだ。焦っては駄目だ。冷静に対処しなければ、判断を誤る)
 とりあえず、今出来る事をしよう。
「あんたは、これからどうするんだ?」
「私か? さっきも言ったように――」
「折角の文化祭をこんなところで過ごしていていいのか?」
「それは……」
 月原は言葉に詰まる。
「自分のクラスの出し物はどうした? あっちには関わらないのか?」
「生徒会の人間は自分のクラスの出し物に関わらない。それに甘味処など、私が行ったところで役には立たない」
「だが、顔を出すくらいはいいだろう? もうすぐ昼食時だ。少し早めに摂っても構わない筈だ」
「しかし、私は――」
「カロリーメイトばかりでは飽きるに決まっている。さあ、行くぞ」
「お、おい!」
 俺は強引に月原の手を取って生徒会室から出た。
(こんな事をしている場合では無い事は分かっている……だが、なぜか放っておけないんだ)
 どうせシンクロが終わるまで動けない。
 それに、体力の回復と頭の回転を良くする為にも昼食は必要だ。

――AM 11:21

「いらっしゃいませー……あっ! 優に浅田さん!」
 再び三年A組に入ると、明治時代のような格好をした弥生さんが居た。
「約束通り来ましたよ」
「はいー。ありがとうございますー。優も良く来てくれたね」
「あ、ああ……」
 自分のクラスだというのに、月原は気後れした様子である。
「二名様ですね。どうぞこちらへー」
 弥生さんは手馴れた様子で俺たちを席に案内する。
 甘味処だけあって若い女性が多いようだ。
「何にしますか?」
「お汁粉二つ」
「わんこお汁粉はどうですかー?」
「いや、それは……」
「現在の最高記録は十七杯ですよー。新記録を出したら、無料なんですー」
「だから――」
 そこで俺は気が付いた。
(まずい……財布を忘れた)
 仕事中は動きの邪魔になるので教室のロッカーに置いてきたのである。
 いつ掛かってくるか分からない携帯電話だけは、どうしても外せなかったのだが。
「無料とは……連れの分もですか?」
「勿論ですー」
「……わかりました。それ、お願いします」
「おい! 浅田!」
 月原が止めるのにも聞かずに俺は注文する。
(自分から誘っておいて、金が無いなど言える筈が無いからな)
 十八杯くらいどうにかなるだろうと、俺は高をくくっていた。

――AM 11:33

「大丈夫か、浅田? まったく、無茶をして……」
 心配と呆れが混じったような表情で月原が話し掛ける。
「お汁粉の海で……溺れているようだ」
 俺は机に突っ伏しながら答えた。
(当分、甘いものは必要無いな……)
 周囲にはやし立てられた事もあって、結局十分間で二十杯も食べる事になってしまった。
 単純計算で三十秒に一杯である。
「溺れる、か……嫌なものだな」
 月原は暗い表情で呟く。
「そういえば、水が嫌いだと言っていたな。何か嫌な思い出でもあるのか?」
 俺は気を紛らわせる為に特に深い意味も無く尋ねた。
「ああ。小さい頃に用水路で溺れた事があった。それ以来、水場に近付くには抵抗がある……」
「それは……嫌な思い出だな」
 答えながら、どこか記憶の奥にちくり刺すような感じがした。
「勘違いしないでくれ。私自身が水を恐れているのではない。
 ただ……おのれの不明さと無力さを恥じているだけだ」
 月原は話を続ける。
「かつて、用水路で溺れた私を救ってくれた男の子が居た。
 遠い親戚から引き取った子だったらしいのだが、私のせいで家から追い出されてしまった……
 その後は、どうなったのか分からない。
 それ以来私は人に迷惑を掛けぬように、己を律し、全てにおいて厳しく生きていく事にしたのだ」
 そこで月原は、ふっと笑みを浮かべる。
「どうしてだろうな。おまえの前だと、どうも口が軽くなってしまうようだ」
「その子の名前は……?」
「正確には分からない。両親に尋ねても教えてはくれなかった。ただ、当時私は彼の事を――」
「よー君」
 俺がその名を口にした時、二人の間の時が止まった。
「なぜ、それを……?」
「何度も言ったんだ。俺の名前は涼一だって。
 それなのに、最後までちゃんと呼んでくれなかったな」
「おまえ……おまえが……!」
 月原は言葉にならず、手で顔を押さえながらぼろぼろと泣き出す。
「まあまあ、どうしたの?」
 すると、慌てたように弥生さんがやって来た。月原の――優ちゃんの肩を慰めるように抱いている。
「赦してくれ……いや、どんなに謝っても足りない……私の……私のせいで……」
 普段の気丈な姿は欠片も無かった。
「……気にするな。現に俺は、今もこうして生きている」
 今の生活に不満は無い。最終的に八木家に引き取られた事で、
 頼るものが無かった俺の生活はようやく安定したのだ。
「それに、こうして再び出会えたんだ。お互いの無事が分かったのだから、それでいいじゃないか」
「そうか……本当に、ありがとう……ありがとう……」
 あれからずっと、月原の身は罪悪感に苛まれていたのだろう。
 長い時間掛けて、ようやく彼女の心は救われたのだ。
「何だか分からないですけど、良かったですねー」
 弥生さんの笑顔が眩しい。
「ええ、本当に――」
 俺は教室の時計をちらりと見た。
「俺はそろそろ行かなきゃならないんです。すみませんが、後はお願いします」
 ここに月原を置いていくのは気が引けるが、仕方が無い。
「浅田……」
「まったく、見違えたぞ。今まで全然気付かなかったよ」
「今度、話をしてくれ。今まで何があったか……私も、話したい事が沢山ある」
「ああ。約束する」
 月原の気持ちが落ち着くまで、しばらく時間が必要であろう。
 それは、俺も同じだ。
「では、これで。ごちそうさまでした」
「はいー。ありがとうございましたー」
 二人に見送られて三年A組の教室を出る。まだ腹は窮屈だが、動けない程ではない。
(もしもあの家に留まっていたら……月原が俺の姉代わりとなっていたのか)
 それも悪くないと、俺は思った。

――AM 11:45

 外に出てプールに向かった。
 シンクロは既に終了していて、プールの中には誰も居ない。
 客の数もわずかだけが残っていた。
「はい、チーズ!」
 プールの飛び込み台のところで水着姿の男子生徒達がお客と記念写真を撮っている。
 人は殆どその場に集中していた。
(好都合だ……目洗い場は、プールを挟んで反対側にある)
 俺はこっそりと目的の場所に向かうと、鶴のレリーフはすぐに見付かった。
 だが、爆弾が入っている箱の姿は無い。
 地面はコンクリートなので埋まっている事はないだろう。
 近くの排水溝や積み上がったビート版などをくまなく探したが、どこにも無かった。
(参ったな……他にも鶴が無いか、あの時に聞いておけば良かった)
 今更後悔しても遅い。とにかく、誰でも良いから尋ねてみよう。
「はいはい。もうちょっと近寄って! ほら〜、恥ずかしがってないで!」
 プールの向こう側から聞き慣れた声が聞こえる。
「瑞樹……?」
 村上から瑞樹も出し物の助っ人に出ると聞いていたが、まさかシンクロだったとは。
(まあ、奴らしいと言えば奴らしいか。ちょうど良い、瑞樹に尋ねてみるとしよう)
 俺はプールの方に振り返って歩こうとした。
「ああっ! 駄目だよ!」
 すると、向こうから女の子の悲鳴のような声が聞こえた。
 瑞樹が何かをやらかしたのかと思ったが、そうではなかった。

 ――ボチャン!

 プールに飛び込む小さな音。
「あれは!?」
 俺は驚きに目を見開く。
 プールに飛び込んだ者は、一目散に泳ぎ続ける。
 俺の居る方へと、一直線に。
「あいつ……」
 その無茶な行動を目の当たりにして焦る。
 周囲の人間も、いきなりの事態に対応出来ていないようだ。
「あっ!」
 プールの中央辺りまで来て力尽きたのか、前に進む事無く溺れ始める。
「まずい……」
 向こうでも何人かがプールに飛び込んだが、どうみても間に合わない。
「待っていろ!」
 俺は咄嗟に近くで積まれていたビート版をプールに向けて蹴り飛ばした。

 ――バシャ、バシャ、バシャ!

 水面に浮かんだビート版を足場にして、ブールの中を飛び進む。
「捕まえた!」
 ぎりぎりのところで、水に沈み掛けた身体を掴み上げる。
「瑞樹!」
「あいよ!」
 ビート版が向こうまで届いていなかったので、
 瑞樹の肩を足場代わりにして無事向こう側まで渡り切った。
「……あのね、涼一君。前から聞きたかったんだけどね〜」
「後にしてくれ」
 急激な運動で吐き気がする。どうにかして呼吸を整えた。
「それにしても……どうしておまえがここにいるんだ?」
「みぃー……」
 ずぶ濡れになったミーは申し訳無さそうに小声で鳴いた。水は飲んでいないようなので安心する。
「この子……お兄ちゃんの姿を見たら急に」
 現在の飼い主の女の子が驚いた様子で言った。周囲の人間も似たような反応である。
「おまえも遊びに来たのか? まったく、今日は色んな出会いがある日だ……」
「みぃー」
 ミーは俺の顔をぺろぺろと舐める。きっと、あんこの匂いに反応しているのだろう。
「ミーったら……今の飼い主はわたしなんだよ。
 お兄ちゃんの事になると、周りも見えなくなるんだから」
 女の子は少々呆れた様子だ。近くには母親の姿もあって、どうやら一緒に遊びに来たようだ。
「ところで涼一君。僕の華麗なるシンクロは見てくれたのかな?」
 プールから上がった瑞樹が俺に尋ねる。
「いや、今来たところだ」
「なんだよ、もう〜。正弘の奴も『ヤローの裸なんぞ興味ねえ』なんて言うしさ〜」
 自らの肉体を見せ付けるようにポージングをしながら瑞樹は言う。
「それにしても、お客が殆ど帰った時に来てくれて助かったよ。
 あれで僕達の事なんて忘れ去られていたかもしれないしね〜」
「そんな事はないだろう」
 おそらく長い練習を積み重ねて本番に臨んだのだろう。
 こいつらの日焼けした身体を見れば分かる。
 それだけの思いが込められた出し物を、俺が何かしたくらいで忘れられる筈が無い。
「そうそう。あたしはちゃんと、あんたを見ていたからね」
 と言いながら、一人の女性が現れた。年齢は俺たちと同じくらいだろう。
「それにしても慎也。あんたの知り合いに忍者でも居るのかい?
 あの脚力はどうみても並じゃないよ」
「前に話しただろ? 彼が涼一君だよ」
「ええっ! あの噂の!?」
 どんな噂を流しているのか気になるが、今はそれどころではない。
「そうそう、紹介するよ。彼女は榊雪那さん。
 この夏知り合った、ちょっぴりシャイな空手ガールさ」
「誰がシャイだ!」
「ところで何しに来たんだい?
 こんな時間に来るって事は、シンクロを見に来たわけじゃないんだろう」
「ああ。瑞樹、この学校で鶴と言えば何か思い当たる物は無いか?」
「そこの目洗い場のレリーフの事? それとも、校長室に飾ってある彫刻の事かい?」
「いや、それ以外で」
 流石に瑞樹は学校の事を良く知っているようだ。瞬時に二つも答えたのはこいつが始めてである。
「それ以外ねえ……だったら、図書室にでも行ったらどうだい?」
「図書室?」
「うん。『鶴の恩返し』とかあるんじゃないの?」
「……それだ!」
 ここまでくると、自分の至らなさに腹が立ってくる。
「ミー。ご主人様のところに戻れ」
「みぃー……」
 名残惜しそうなミーを女の子の手に渡す。
「お兄ちゃん。もう行っちゃうんですか?」
「ああ。急ぎの用事があるんだ。文化祭、楽しんでいってくれ」
 安全を期するならすぐに帰れと言うべきなのだろう。
 だが、それだとどうしてなのかと理由まで話さねばならない。
「じゃあ、またな」
 俺は悔しさに歯を噛み締めながら、別れを告げて走り出した。

――PM 0:00

 ちょうど真昼時となり、制限時間まで残り一時間となった。
(しかし……文化祭の最中に図書室なんて開いているのか?)
 その心配は杞憂に終わった。
「あっ、涼一さん。こんにちは」
 図書室の扉を開けると、カウンターには北村の姿があった。
「文化祭なのに、ここは開いているのか?」
「ええ。外から来たお客さんの中には、図書室を利用したいという方も多いんです。
 ですから今日だけ特別に解放しているんです」
「成程……俺も入っていいのか?」
「ええ、どうぞ」
 中の様子を伺うと、確かに一般客の姿がちらほらと見受けられる。
(まずは『鶴の恩返し』だ。他にも図鑑や専門書など、鶴を扱ったものがあるかもしれないからな)
 民話や童話のコーナーで足を止めてくまなく探す。
 きちんと五十音順に整理されているので探しやすい。
(鶴の恩返し……鶴の恩返し……あった!)
 目的の本を見付けてそれを本棚から抜き出して手に取る。
「何かお探しですか?」
 急に背後から北村に話し掛けられてどきりとした。
「ああ。見付かったから、もう大丈夫だ」
 動揺を必死に隠して答える。
「ところで、今日は本の貸し出しはしていないのか?」
「はい。閲覧だけです」
「だがそれは、ここの本に限るだろう?」
 俺は『鶴の恩返し』と書かれた本の表紙を見せた。
「あら? ここに、そんな本があったかしら……?」
「こいつはここの本じゃない。現に、図書室のシールが張られていないだろう?」
「そうですね。でも、どうして――」
「ちょっとゲームをしていてな。この本はこの日の為に外から持ち出されたものだ」
 間違った事は言っていない。
「はあ、そうですか。宝探しのようなものなんですね」
「……ああ。だから、こいつを持って行って良いか?」
「そういう事なら、どうぞ遠慮なさらずに」
「すまない」
 親しい北村でなかったら、こんなにスムーズにはいかなかっただろう。
 俺は本を抱えて図書室を出た。
「あ、あの!」
 するとその時、北原が上ずった声で俺を呼び止めた。
「……どうした?」
「えっと、その……」
 何やら言いにくそうにもじもじとしている。
「もし、時間が空いたのなら……わたしと一緒に、文化祭を回っていただけませんか?」
「北村と二人で?」
「は、はい」
「構わないが……いつ時間が空くか分からないぞ?」
「いいんです。私、ずっとここに居ますから。離れられるのも少しだけですし……」
 うつむきながら呟く。
「……分かった。もし暇が出来たら、ここに迎えに行く」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ」
「ありがとうございます!」
 北村は嬉しそうに深々と頭を下げる。
「じゃあ、後でな」
「はい!」
 北村に見送られながら、俺は素早く廊下を歩き出した。

 ――プルルルルルルッ。

 程無くして携帯電話が鳴り出す。
「もしもし?」
 人気の無い階段の踊り場で俺は電話に出る。
『ドウヤラ見付ケタヨウデスネ』
 相変わらず正体不明なXの声。
「ああ。まさか、本に偽装しているとはな」
 本を手に取った瞬間、その重さの感触でただの本では無い事はすぐに分かった。
『ナラ次ハ、爆弾ノ解除ヲシナクテハナリマセンネ』
「分かっている」
 俺は苛立たしげに答える。
「場所を選んでもいいか?」
『イイデスヨ。但シ、学校ノ敷地内ニ限リマスケドネ。
 ソレト一度決メタラ、ソコカラ動ク事ハ許シマセンヨ』
 ここから近くて、人気の無いところはどこかと考える。
(そうか、屋上だ。流石にこの日ばかりは人気も無いだろう)
 そう考えると俺は、すぐに階段を駆け上がった。

――PM 0:14

 無用心な事に鍵は開いていた。そうでなければドアノブごと破壊する覚悟であった。
(人は……居ないな)
 外の様子を慎重に伺う。
 普段なら昼時のこの時間は生徒達の憩いの場所となっているのだが、
 文化祭で食べ物屋が乱立している学校の中で、わざわざここに来る物好きは居ないという事か。
(こちらとしては好都合だがな)
 屋上の柵には『藤高文化祭へようこそ!』と一文字ずつ書かれた看板が設置されている。
 おそらくこれを設置した連中が、ここの鍵を掛け忘れてくれたのだろう。
(さて、悠長な事はしていられない)
 俺は屋上に出ると、更に高いところを目指しての入り口の建物の上の屋根へとよじ登った。
 柵も何も無いので高所恐怖症の人間にとっては眼も眩むような場所だろう。
『準備ハ出来マシタカ?』
 繋がったままの電話からXの声が響く。
「ああ。いつでもいい」
 俺は外から見えないように中央に腰を下ろして本を目の前に置いた。
『デハ、本ヲ開イテダサイ』
 言われた通りに表紙を開く。これで爆発はしないだろうが、やはり緊張する。
 本の中がくり抜かれて、以前と同じような仕掛けがしてあった。
 爆発物と思われるものに携帯電話が繋がっている。
(しかし、今度は無数のコードが伸びている……二分の一の確立どころでは無いぞ)
 おそらく、どれか一本でも間違えて切ってしまえば爆発するのだろう。
『今度ノ仕掛ケハ今マデトハ違イマス。ソノ中ニアル携帯電話を見テクダサイ』
 そう言われて携帯電話を見てみると、今までのとは違ってボタンが潰されていなかった。
『今回ハ、アル特定ノ数字ヲ入力スルト電源ガ切ラレルスル仕掛ケニナッテイマス。
 チャンスハ一度。数字ヲ入力シタラ、通話ボタンヲ押シテクダサイ』
「……それでは、漠然とし過ぎていて手が出せないぞ」
『分カッテイマスヨ。デハ、恒例ノヒントデス』
 Xは楽しそうに言葉を続ける。
『1、2、3ノ、三ツノ数字ヲ使ッテ出来ル一番大キナ数字ハナーンダ?』
「1、2、3の三つの数字……?」
 俺は口の中で反芻する。
(今度は計算か……だが、今までの謎々ようにトンチを利かせる類かもしれない)
 普通に考えれば321だろうが、まさかそんな単純な答えではあるまい。
 しかし、三つの数字をどう足しても掛けても、それ以上大きくならないのだ。
『言ッテオキマスガ、特別ナ計算式ハ必要アリマセンヨ。
 ソノ気ニナレバ、コレハ中学生デモ解ケマス』
 Xは釘を刺すようにいった。
(数字……アラビア数字ではなく、漢数字か? それともギリシャ数字……)
 そこまで考えて、あることに気付く。
(Xは『特別な計算式は必要ない』と言っていたな。
 という事は少なくとも、単純な計算は必要だという事だ)
 しかし、それが分かったからといって事態が好転するわけでもない。
(くっ……こうしている間にも時間が無くなっていく。
 こうなったら、一か八か適当な数字を……いや、確率的にはコードを切った方がいいのか?)
 焦りと迷いが心の中で大きくなっていく。
 残り時間は十分を切った。
(落ち着け……人間が考えたのなら、解けない筈が無い)
 俺は深呼吸をして心を平静にさせる。
(123、132、213、231、312、321……いくら加減乗除しても、これ以上は――)
 そこで俺ははっとなった。
(乗……まさか、二乗か? これなら中学校でも習うだろう)
 咄嗟に頭に浮かんだ数字を並べ替える。
(31の二乗……いや、21の三乗の方が――)
 そこまで考えて愕然となる。
(もしや……3の二十一乗か!?)
 おそらくそれで間違いないだろう。
 だがそれには、膨大な計算が必要となる。
(電卓はここにはない! 自力で計算するしかないのか!?)
 ペンも紙も無い。ここから動く事も出来ないので、俺は暗算で答えを導き出すしか方法が無かった。
(……3、9、27、81、243、729、2187、6561、
 19683、59049、177147、531441、1594323――)
 もう時計を見ている余裕も無い。何度も途中つまずいてやり直しながら、必死で計算を続けた。
(……1162261467……3486784401……10460353203!)
 どうにか計算が終了する。
(何が『その気になれば中学生でも解ける』だ!)
 文句を言う時間も惜しく、俺はすぐに数字を携帯電話に入力する。
『解ケマシタカ?』
「ああ! 答えは、10460353203だろう!?」
 入力が終わり、最後に通話ボタンを押そうと指を伸ばす。

 ――ピー、ピー、ピー。

「惜シイ。時間切――」
 その時既に俺は、爆弾の入った本ごと上空に力一杯放り投げていた。
(空なら被害は出まい!)
 以前と同じ造りなら、爆発まで一瞬のタイムラグがある。
 最悪の事態を想定して俺はこうする事を考えていた。
(あとはどれだけの爆発力が――)

 ――ドオオォォーン!

 空高くで花火のような音が響き渡る。
 衝撃に備えて身構えていたが、思った程の爆発力は無かったようで身体に被害は無い。
『フム。ソノ為ニ屋上ニ来タノデスカ……』
 Xが感心したように呟く。
『時間切レデシタガ、自力デ答エヲ導キ出シタノト、
 ソウシテ機転ヲ利カセテ生キ延ビタ事ニ免ジテ、ギリギリ合格トシマショウ』
「貴様……!」
 俺は怒りに言葉を振るわせる。
 あの爆発力ならば軽く人一人は殺害出来た。
 そしてその被害者は、北村だったのかもしれなかったのだ。
『オット、マダゲームハ途中デスヨ』
「まだあるのか!?」
『文化祭モマダ途中デス。デハマタ、一時間後ニ連絡シマスヨ』
 そうして通話が切られる。
「くっ、このままでは……!」
 携帯電話を睨み付けながら歯噛みする。
 あの爆発は本物だ。
 あと幾つ爆弾があるのか分からないが、今度こそ本当に犠牲者が出るかもしれない。

 ――ガチャン。

 その時、屋上の扉が開く音がした。
 咄嗟に俺は身を伏せて姿を隠す。
「ああ、やっぱり鍵が開いていましたよ」
「だが……誰も居ないみたいだな」
 どうやら教師の二人組みらしい。
「やっぱり、どこか遠くで花火が打ち上げられたんでしょう。ほら、ここには何も無いでしょう?」
「ふむ、そうみたいだな。またグラウンドのようなイタズラかと思ったが、そうでなくて安心した」
 屋上を調べているようだが、どうやら俺の存在には気付いていないようだ。
「だが、鍵はきちんと閉めたほうが良いな。ガラの悪い連中が学校に来ているとも聞いているしな」
「ええ。そうですね」
 二人が屋上から出て行くとそのまま扉の鍵を閉めてしまった。
 それにしても、随分と危機意識の低い教師共である。
(参ったな……)
 俺は屋上の床に下りて困り果てる。
(あの様子からして騒ぎにはなっていないようだが……このまま閉じ込められるわけにもいかない)
 自分の教室の事も気になる。
 勝手に飛び出してから、随分と時間が経っているのだ。
(仕方ない。壁を伝って降りるか)
 ああして目を付けられた以上、扉を破壊するような派手な事は出来ない。
 学校裏側のフェンスの前に立って、外から誰も見ていないのを確認するとそれを乗り越える。
(……去年を思い出すな)
 ちょうどここで女子生徒の自殺未遂騒ぎに巻き込まれた。
 春日部響子と名乗った彼女はとっくに卒業している筈だが、
 卒業後にもわざわざ母校の文化祭に参加するようなタイプじゃなかったように思う。
(おっと、そんな事を考えている場合では無いな……)
 俺は苦笑すると、壁の突起やパイプを利用しながら慎重に降り始めた。