第九十七話 「ギルティ・ハート〜そのF〜」


 当時私は、仲の良い友達というのがほとんどいなかった。
 幼少の頃からバイオリンを習い、躾も厳しかったせいか、
 なんとなく普通の女の子達とは馴染めなかったところがあったのだ。

「ねえ、何してるの?」

 私が楽しそうに話している女の子達の輪に入ろうとすると。

「ううん、なんでもないの。倉谷さん」

 明らかに避けるというわけでもなく、やんわりと断られるのだった。
 彼女達は愛想よく対応してくれるけど、どことなく私を違う人種として扱っている風だった。
 その証拠かどうか、だれも私を『唯』と名前で呼ばず、
 『倉谷さん』と目上の人に対する呼び方をしていた。

「倉谷さんって、育ちがいいからねー」

 これがよく言われる言葉だった。
 クラスの誰かがテレビか何かの真似をしたとき、
 みんなは笑っているのに私だけがキョトンとしているのだった。
 テレビなんてニュースか学習番組くらいしか見なかったので、言っている意味がわからなかったのだ。
 
「さようなら、倉谷さん」
「じゃーねー」

 学校が終わると何人かが声を掛けてくれるが、一緒に帰ろうという子はいない。
 私はそのまま帰宅してバイオリンの稽古に励むのが大体の日課だった。

(私も、あんな風にお友達と楽しく過ごしたいな……)

 一人で楽譜を見つめながら練習をしているとき、たまにそんなことを思ったりもした。
 そんな日々が続いていた中で、一つの変化があった。

「チョーップ!」

 朝登校途中。いきなりなんの前触れも無く、後ろから頭部に痛みが走った。

「えっ…?」
 
 驚いて振り向くと、そこには一人の男の子が立っていた。

「アホかおまえはっ!」

 その瞬間、別の男の子が来て私をたたいた男の子を小突いた。

「いてっ、なにするんだよ敬司!」
「なにするんだじゃねーだろ?
 いきなり女の子の後ろ頭にチョップかますやつがいるかよ、おい」

 二人は私と同じクラスの子、敏樹君と敬司君だった。

「いや、ちょっとアイサツだって」
「どこの世界のアイサツだっつの」

 二人が仲の良い友達と言うのは知っていたが、私と特に親しいというわけじゃなかった。

「あの……」

 私はおそるおそる声を掛けようとすると、先に須永君が声を掛けてきた。

「あー、悪い悪い。こいつアホだからたまにわけのわからない行動するんだ」
「アホってなんだよアホって! 人をキ○ガイみたいに言うな!」
「さ、そろそろ病院に戻ろうぜ。あんまり問題起こすと外出時間がなくなるぜ」
「何言って……おい、どこに連れてくきだ! はなせー! あの白い部屋はもういやだー」

 そう言って二人は先に学校の方へと行ってしまった。

「………」

 私はその光景を呆然と見ていた。
 そして、今私は和泉君に自分がからかわれたんだと思った。

「……ふふっ」

 そう思うと自然におかしさがこみ上げてきた。
 日常の友達同士の自然な会話。私にとっては新鮮な心地よさだった。

(敏樹君か……。また私にちょっかいかけてくれないかな……)

 その願いが通じたのか、彼は色々とちょっかいをかけてくるようになった。

「やめてよー、返してよー!」

 私は筆箱をとった敏樹君を追いかけている。

「やだよー! 返して欲しいなら自分で取ってみなー!」

 そう言ってひらひらと私の前にちらつかせる。

「あははは……」

 私は必至に追いかける。まるで鬼ごっこのように。

「待ってよー! 敏樹くーん……!」

 そろそろ頃合いになると、私はいつものように泣いた振りをする。

「あっ……?」

 彼は驚いて振り返る。

「ゆ、唯ちゃん?」

 そして困ったように私の元に駆け寄ってくる。

「ご、ごめんよ。ほら、筆箱返すからさ……」

 今までの態度がウソみたいに素直になる敏樹君。 

「……ほんと? もう、しない?」

 指の隙間から彼を覗くと、いかにもすまなそうな表情をしていた。

「うん、もうしない」

 そう言って彼は筆箱を返してくれた。

「本当に、ごめん……」
「ううん、もういいの」
「本当?」
「うん」
「よかったー」

 というのがいつもの風景だった。私はその日常を楽しんでいた。
 時にはまあ、本当に困ったこともあったが、それでもこの関係は大切にしたいと思っていた。
 そんなこんなで敏樹君とは結構親しくなっていた。
 敬司君とも仲良くなり、学校で唯一気軽に話し掛けてきてくれる友達だった。
 こんな日がいつまでも続けばいいと思っていた。

「えっ、引越し?」

 唐突にそれは訪れた。

「なんで? 急にそんな……」
「決まったことだ、仕方が無いんだよ」

 父の仕事の都合で遠い地へと引っ越さなければならなくなった。
 本当に急な話しで、話を聞いたニ週間もしないうちに引っ越さなければならなくなった。

(せっかく友達もできたのに……。敏樹君、敬司君……)

 しばらくの間は転校することを告げることはできなかったが、一日また一日と過ぎていき、
 そして転校ニ日前、私はついに話す決心をした。

「……あの、敏樹君」

 学校が終わり、教室から出ようとした敏樹君に思いきって声を掛けた。

「ん、何?」
「えっと……敬司君は?」
「あいつは剣道の練習とかでとっとと帰ったよ。唯ちゃんもこれからバイオリンの稽古だろ?」
「ん……今日はいいの」

 引越しの準備が忙しくて今はお休みで、せいぜい学校の休み時間に弾くくらいだった。

「だから、たまには一緒に帰らない……かな?」

 おそるおそる私は聞いてみる。

「えっ? あっ……えっ?」

 すると彼は何やらうろたえた様子を見せた。
 無理も無い、こんなことは今まで一度も言ったことがないからだ。

「……だめ?」
「い、いや。別にいいよ」
「よかった……」

 そうして私達は一緒に学校を出た。

「………」
「………」

 私達は特に何も会話もなく帰り道を歩いていた。
 いつもはふざけた調子でからかってくる敏樹君も、この時ばかりはなぜか黙っていた。
 そのせいで私も中々話すタイミングを掴めないでいた。

「……あの」

 このままではいけないと思い、私は話を切り出した。

「なんで……私にちょっかいかけてくるようになったの?」

 お別れをする前にどうしても聞いておきたいことだった。

「いや、あの……ごめん。やっぱり、迷惑だよなー」
「ううん、そういうわけじゃないけど……。ただ、どうしてかなって」

 するとちょっと考えてから敏樹君が言った。

「いやさ……なーんか、唯ちゃんって浮いてる感じがするよね」
「浮いてる?」
「ほら、唯ちゃんが他の女の子とあんまり仲良くしてるの見ないからさ」
「……うん」
「なんでかなー? 俺は良くわかんないけど」
「………」 
「そんなんだからってわけじゃないけど、別に俺くらいが仲良くしたっていいじゃねーかなって。
 まあ、嫌がらせみたいなこともしちまったけど……」

 そう言って彼はすまなそうに頭を掻いた。

「そうなの……。ごめんなさい、私なんかのために……」

 今までの彼の行動は、彼のやさしさからくるものだったのだ。
 その気持ちをようやく理解した私はすごくお礼を言いたい気分だった。

「い、いや。別にあやまらなくてもいいよ!
 そんな大したことしてたわけじゃないし、それに……」

 そう彼が言いかけた時だった。

「ああー、男と女二人っきりであやしー!」

 通りかかった公園で、他の小学校の子だと思われる三人にちょっかいをかけられた。

「なんだよおまえら、あっちいけよ」

 敏樹君が追い払おうとするが、向こうはその反応が気に食わなかったのか余計突っかかってきた。

「あっ、こいつなんか持ってるぜー」

 その中の一人が、私の抱えているバイオリンケースに目を付けた。

「やめて、触らないで!」

 私はその手を必至に振り払った。

「何するんだよてめーら! 唯ちゃんにさわんな!」

 そう言って敏樹君が相手に掴みかかって行った。

「何ムキになってんだよ、バカじゃねーの」 
「うるせー! さっさとどっかいっちまえ!」

 小競り合いをしている中、
 私にちょっかいをかけていた一人がバイオリンケースとは違うものに目を付けた。

「ん? こいつ、首にカギなんかぶら下げてるぜー」

 動き回っていたせいか、服の下にしまっておいたはずの鍵が上に出てしまった。

「あっ…!」

 両手でバイオリンを抱えていたため、なすすべも無く鍵をとられてしまった。

「へーんだ、そんなに大事なものか?」
「そうよ! 返してよー!」

 いつも敏樹君とやっている状況のようだが、この場合は明らかに違う。
 向こうははっきりと悪意を持ってでやっているのだ。

「てめー! なにしてんだよ、返してやれ!」

 敏樹君が気付いてその相手から鍵を奪い返そうとする。

「ほらよ、パース」

 向こうは三人でそれぞれ鍵を渡し合い、敏樹君をおちょくっていた。

「ふざけんなよ! くそっ!」

 敏樹君はやっきになって取り返そうとする。

「敏樹君……」

 私はその様子を見つづけるしかなかった。

(どうして、私のためにそんな一生懸命にしてくれるの……?)

 その姿を見て私は思う。
 いつもはふざけて面白いこととかも言ったりしてて、こんなに熱くなった姿を見たことが無かった。

「しつけーな、てめーも!」

 すると相手は公園の中にあるひときわ大きな樹に鍵を放り投げた。

「あっ!? てめっ!」

 鍵に付いていたヒモが枝に引っかかり、地上には落ちてこなかった。

「て、てめーら、なんてことするんだ!」

 敏樹君が樹の上と相手を交互に見る。

「へへっ、くやしかったら取りにいってこい。バーカ」

 そうして三人はどこかへと逃げて行った。

「くそっ…!」

 敏樹君は追いかけることはなく、樹の上を悔しそうに見つめていた。

「唯ちゃん、あのカギって大事なもの?」
「えっ? うん」
「家のカギ?」
「ううん。これの……」

 私は抱えていたバイオリンケースに目を向けた。

「それのカギか……じゃあ、大事だよな」

 そう言うと彼はすぐに樹の幹に手を掛けた。

「ちょ、ちょっと。どうするの?」
「決まってるだろ? 登って取ってくるんだよ」
「無理よ! あんな高い所……」

 しかも枝が細い所に引っかかっているので、かなり危険なのは目に見えてわかる。

「やんなきゃしょーがないだろ……よっと」

 彼は一歩一歩樹の表面につかまって登っていく。

「だけど、どうして和泉君が……?」
「……俺さ、さっきのあいつらとのやりとりで唯ちゃんとのこと思いだしちゃったよ」
「えっ?」
「あんな風に人の物取り上げておちょくるなんて、やっぱ悪いことだよなー」
「そんなこと……」

 気にしていないと言おうとしたら、彼が危うくバランスをくずしそうになった。

「とっとと……アブネー」

 もはや私は黙って見守っているしかなかった。ただ怪我だけはしないで欲しいと願いつづけた。

「もう……ちょい」

 苔ですべるだろう足元の枝に注意を払いつつ、
 彼は鍵の引っかかっている場所まで着実に近づいて行った。

(敏樹君、がんばって……!)

 もはや声も掛けることさえ邪魔しかねない状況になり。私は心の中で何度も応援した。

「とど…け!」

 ひきつりそうになる指先に、ついに鍵に付いてるヒモを掴んだ。

「よっしゃ! とったよ唯ちゃ……」

 そこで気を抜いてしまったのか、彼は大きく体勢をくずしてしまった。

「あっ、あぶな……!」

 そう言う間もなく、彼は枝をバキバキと折りながら地面へと落下してしまった。

「敏樹君!」

 どすんと音を立てて落ちた彼の元に私は急いで駆け寄った。

「敏樹君! 敏樹君!」
「いててて……」

 下が芝生だったのが幸運だったのかもしれない。もう少しずれたらコンクリートの舗装道だった。

「ねえねえ、大丈夫!」
「唯ちゃん、これ……」

 そう言って彼が震える右手で差し出したのはあの鍵だった。

「そんな……!」

 もはや私はわけもわからず泣きそうになった。鍵と敏樹君の手を取り、一生懸命呼びかける。

「………」
「ねえ、敏樹君!」
「………」
「敏樹君ったら!」

 返事がなく、身体を起こしてあげようと頭の方に触れると、何やらぬめっとした感触があった。

「血…!?」

 樹の枝で切ったのか地面に落ちたショックかわからなかったが、
 とにかく大きな怪我をしたのは間違いなかった。

「あ……あ……」

 誰か、誰かに助けを求めなければ。このままでは敏樹君が……。

「だ、だれか……!」

 その時、舗装道を走って来た一台の自転車が止まった。

「……どうしたの?」

 何やら荷台にケースを乗せた自転車に乗っていたのは、私達と同じような年頃の少年だった。

「あ、あの。敏樹君が樹から落ちて……」
「怪我したの?」
「う、うん……」

 すると少年は自転車から降り、私達の元に寄って来た。

「ねえ、君! 大丈夫!」
「だめなの、返事しないの……」
「意識なしか……危険な状態かもな」

 すると少年は敏樹君の身体に目をやった。

「打撲と枝による切り傷……特に後頭部がひどいな。キミ、ハンカチある?」
「う、うん」
「じゃあすぐに水で洗ってきて。そして彼の傷口に押さえるんだ。
 ぼくは近くの電話ボックスにすぐに救急車呼んでくるよ。
 ああ、危険だから絶対に彼の身体を動かさないでね」

 そう言うと少年はすぐにその場から離れて電話ボックスに向かった。
 私も言われた通りハンカチを公園の水道水でぬらして来て敏樹君の傷口にあてた。

「やだよ……敏樹君、死なないで……」

 私は泣きながハンカチを必至に押さえていた。こんなことで、自分のせいで彼を失いたくない。

「救急車呼んだよ。すぐにここに来るから安心して」
「あの、敏樹君は……」
「大丈夫。きっと助かるよ」

 その時の少年の心遣いがありがたかった。
 彼が通りかかってくれなければ、私は泣きながら途方にくれていただろう。

「……あっ、来たみたいだね」

 しばらくして救急隊員がやって来た。

「怪我した子は!」
「そこです。樹から落ちたみたいで、後頭部に大きな傷を負っています」

 少年はテキパキと隊員に説明をした。

「はい、どいて……キミはこの子の友達?」
「は、はい。そうです」

 救急隊員に聞かれ、私はなぜか緊張して答えた。

「えーと、あの通報した子は……」
「いえ、ぼくはただの通りすがりです。それじゃ、配達の途中なので失礼します」

 そう言って少年はそのまま自転車に乗って去っていった。

「おいキミ! 名前は……!」

 振りかえることもなく、彼はその場から消えた。

「変わった子だな……まあいい。おい、タンカを!」

 その後は本当に目まぐるしかった。
 次の日、私のお別れ会もクラスでやってもらったのだけれど、あまりよく憶えていない。
 敏樹君のことが気がかりでしょうがなかったのだ。

「敏樹やつ入院したんだってね? 木から落ちたってな、まったくあいつは……」

 敬司君のそんな言葉を聞くと、私は身体をびくりと振るわせてしまった。

「俺らは帰りに見舞いに行こうと思うけど、唯ちゃんどうする?
 引越しの準備とかあるんじゃないの?」

 実際は私も見舞いに行きたかったのだけれども、
 敬司君の言うように引越しの準備で学校が終わったらすぐに帰らなければならなかった。

「う、うん。そうだけど……」

 確かに会いたい気持ちもあったのだが、
 今更どんな顔をして会いに行けばいいのかという思いもあった。
 葛藤しているうちに時間は過ぎ、車で迎えに来た親に連れられて私は学校を後にした。

「敏樹君は……?」
「大丈夫。大した傷じゃないよ、おまえのせいじゃない」

 親はあのことを早く忘れて、すぐ新しい地に馴染めるようにしなさいと言った。

「敏樹…君」

 そうして私は、敏樹君にお礼も、お詫びも、お別れも言うこともできずにこの街から去ってしまった。


 彼女の話しを聞いているうちに、俺はだんだん当時のことを思い出していった。
 確かに、なぜかいつのまにか病院のベッドに寝ていたことがあった。
 周りの人が言うには遊んでて木か落ちたらしいと言われたが、
 どことなく釈然としなかったのを憶えている。
 さらに唯ちゃんが転校していったと聞き、とてもショックを受けた。
 それがなぜかはわからなかったが……。

「本当、今更かもしれないけど……私は逃げていたようなものだし」

 彼女が本当にすまなそうに言葉を洩らす。

「い、いや。そこまで言わなくても」

 第一、あれは俺が勝手にやったようなものだし。
 自分が悪いと思ってやったことなのに、その相手に謝られては自分の立場がない。

「色々思い出したけど、それでも俺は気にしていないから。いや本当、どうせ昔のことだし」

 それから何年もあのことで唯ちゃんが苦しんでいたとしたら、
 むしろ俺の方が謝らなければいけないのではないか?

「でも私は、もしかしたらとりかえしのつかないことを……」
「いや、だからいいって。別にそんな……」

 ここまで女の子に真摯に謝られてはこちらも困ってしまう。どうしたらいいかと困っていた時だった。

「あー、はいはい。事情はよーくわかった」 

 見かねた敬司が間に入っきてくれた。

「敏樹、おまえは傷のことで唯ちゃんのことを恨んではいないんだな?」
「ああ。思い出した今でも、これっぽっちもないね」
「唯ちゃん、敏樹も当時いじめてたことを悪いと思っていたらしいけど、気にしてる?」
「そんな、気にするなんて……」
「じゃあ決定だ」

 すると敬司は俺の右手と唯ちゃんの右手を手に取った。

「はい。二人で仲直りの握手」

 言われるままに彼女の手を握る。

「えっ? おい、ちょっと……」
「これでもうお互い仲直り。単純だろ?」
「あのなあ……」

 呆れつつ視線を戻すと、意外なこと彼女は泣いていた。

「敏樹君……また、お友達になってくれる?」

 断る理由はない。

「もちろんだよ」

 俺は笑って言った。これでもう、息苦しい関係がなくなったのだ。

「じゃ、仲直りした所で……。せっかくだからどっか遊びに行こうか?」

 敬司がそんな提案を出した。まったく、今回は本当にこいつに救われた。

「賛成!」

 先に返事したのは唯ちゃんだった。

「ああ、行こーぜ」

 まだ昼が過ぎたところだ。週末らしく、楽しく過ごそう――。