第九十五話 「ギルティ・ハート〜そのD〜」


 俺がいる。……小さい頃の俺だ。

『やめてよー、返してよー!』

 そんな叫び声が後ろから聞こえる。

『やだよー! 返して欲しいなら自分で取ってみなー!』

 この声は俺だ。変声期の前、まだ幼さの残る高い声。

『あははは……』

 俺の手に掲げられたもの、それは彼女の小さなピンクの筆箱だった。

『待ってよー! 敏樹くーん……!』

 だんだん彼女の声が消え入りそうになる。
 気になって振り返ると、彼女は地面に座りこんでしくしくと泣いていた。

『あっ……?』

 その瞬間、俺はたとえようのない罪悪感に襲われる。

『ユ、ユイちゃん?』

 そしてすぐに彼女の元に駆け寄り、俺はこう言った。

『ご、ごめんよ。ほら、筆箱返すからさ……』

 彼女に必至に謝る俺。謝るくらいなら、最初からしなければいいのに。
 
『……ほんと? もう、しない?』

 手の隙間から覗かせた瞳が見上げる。

『うん、もうしない』

 だけど、これはウソだった。
 これに懲りず俺はまた彼女にイタズラをし、また泣かせてしまうだろう。

『本当に、ごめん……』

 なぜ、俺はあんなことをしていたのだろう――。



「……最悪の目覚めだ、チクショウ」

 夢にまで出てくるとは、かなりの重症かもしれない。

「こんなこと、思い出したくもないのに……」

 しかし、何かが心に引っかかっているような気がする。
 思い出したくはないけど、思い出さなければならないことが……。

「………」

 しかし、目覚め直後の寝ぼけ頭ではこれ以上の思考はできなかった。

「……時間、か」

 俺はのそのそと布団から這い出て、下へと降りて行った。

「敏樹、遅いわよ」

 台所にいた母さんが顔を出して言った。

「……目覚めが良くなかったんだよ」
「夜遅くまでゲームばっかりしてるからよ。
 ほら、片付かないからさっさとゴハン食べなさい」

 言われるままに椅子に座り、俺は胃袋にメシを詰め込む。

「あっ、そうそう……」

 急に思い立ったように母さんが声を挙げる。

「これ、あの子に持って行って」

 そう言って一つの弁当袋を俺の前に置いた。

「姉ちゃんの? 自分の弁当忘れていったのかよ」

 食後のお茶をすすりながらあきれるようににつぶやく。

「じゃ、頼んだわよ」

 そして母さんはいそいそと食器を片付け始めた。

「まったく……」

 断ることもできないので、俺は二人分の弁当を抱えて登校する羽目になった。



「じゃあ、皆さんの希望通り今日は席替えをします」

 先生がそう言った時、クラスのほぼ半分の人間が色めき立った。もちろん男子。

「さて、その席順を決めるには……」

 するとあちこちで手が挙がり、色々勝手な要望が飛び交う。
 しばらくして、結局くじ引きということで落ちついた。

「えっと、十九番です」

 彼女がその番号を引いた時、周りのあちこちでくやしがる声が聞こえた。
 その席はまだ両隣りが空席で、前と後ろは女子で埋まっていたからだ。

(その席は、十二番と二十六番か……)

 俺はまだクジを引いていない。これからその席を引いてしまうかもしれないのだ。

「はい、次」

 できればそれは避けたい。俺は違った意味で緊張しながら順番を待った。

「あっ、二十六番だ。やった、隣りだねー」

 この番号を引いたのも女子だった。残り後一つ。

「次」

 とうとう俺の番が来た。見ると、まだ十個以上は軽く残っている。

(……これなら、引く方がむずかしい。大丈夫、そんな偶然なんてあるわけない)

 そう祈りながら手を伸ばし、無作為に紙をつまみ出す。

「……ウソだ」

 こんな偶然があってたまるか。
 いや、彼女がここに転校してきたことに比べればささいなことかもしれない。
 しかし、何かしらの陰謀みたいなものを感じる。

「十二番……だ」

 その言葉が聞こえたのか、周りの男子からのブーイングが聞こえた。

「なんで、だよ……」

 こんなの、どこぞの恋愛シミュレーションじゃないか。
 俺は彼女を攻略するつもりはないのに……。



 昼になったところで、俺は始めて鞄に弁当が二つあることに気がついた。

「やべっ、忘れてた!」

 その一つを抱え、俺は急いで姉のクラスへと走って行った。

「えっと……」

 三年生の校舎に辿りつき、目的のクラスを探す。
 当たり前と言うか、周りはみんな三年生ばかりだなのでちょっと気後れしてしまう。
 目的のクラスはすぐに見つかり、中を覗いて見ると姉の姿が見れた。

「……だけど」

 やはり教室に入って声を掛けると言うのも気恥ずかしい。
 まして自分の実の姉ともなると……。

「こっちに、気付いてくれないかな……?」

 見ていてもそんな様子は無く、姉は先ほどから自分鞄を覗いて何やら探し物をしているみたいだ。

(それって……俺の手元にあるやつじゃないか?)

 きっとそうだろう、当の本人は忘れたことに今気付いた所なのだ。

「うちのクラスに何か用なのか?」

 突然、本当にイキナリだった。

「えっ? あ、あの……」

 恐る恐る声の方向を見ると、その人物は見たことがあった。
 この学校の生徒会長、月原優だ。

(そういや、同じクラスって聞いたっけ……)

 多分、今こうして会うのが始めてのような気がする。
 なるほど、結構綺麗な人みたいだ。性格はちょっとキツそうだけど。

「何の用かときいているのだが?」

 俺が黙っていると向こうが重ねて聞いてきた。
 あまり他の人の注目を浴びないうち話したほうが良さそうだ。

「えっと……和泉さんに用があって」
「弥生に?」
「はあ」
「一体、弥生に何の用なのだ?」

 なんだっていいだろうと反論しようと思ったが、まあここは我慢しておこう。

「弁当を届けに来ました。忘れて行ったもんで」
「弁当……?」
「あっ、俺弟なんですよ」

 ここで始めて自己紹介をすると、向こうも納得してくれたようだった。

「なるほどそういうことか。弥生から聞いていたが……」

 そう言って何やら俺を値踏みするような視線で眺めた。

「な、なんですか?」
「いや、確か浅田涼一と友達だったな」

 何故、ここであいつの名前が出てくるんだ?

「友達というか、まあ……ちょっとした知り合いってだけで」
「ふむ、なるほどな。同じクラスというからそんなものだろう」

 なんだこの女? なんでそんなことを聞いてくる?

「あの、それより……」
「ああそうだったな、今呼んでくる」

 ようやく目的が達せられそうだった。
 しかし、新崎はあの生徒会長と仕事をしていのかと考えると、
 いやはや苦労しているんだなと思ってしまう。

「敏樹ー、お弁当持ってきてくれたんだって?」

 そう言いながらぱたぱたと嬉しそうに駆け寄ってきた。
 その様子はさながらおなかの空いた犬みたいだった。

「大声で言うなよっ、恥ずかしい」

 何人かがちらちらとこちらを見ている視線を感じる。

「いいじゃない、そんなの。それよりお弁当は?」
「……ほら、これ」

 目の前に差し出すと、臆面も無く笑顔で受け取る。
 別に大したことをした訳でもないのに、なんかちょっと恥ずかしい。

「ありがとー。ホント、鞄にお弁当がなくてどうしよかと思ったのよ」
「これからは注意してくれよ、じゃ」
「うん」

 そうして俺はそそくさと三年生の校舎を去った。
 しかし、姉ちゃんはなぜあの生徒会長と友達なのだろう?
 と、帰り際にふと思った。性格も見たところ正反対なのに……。
 今度機会があったら聞いてみるのもおもしろいかもしれない。

(って、そんな場合じゃないよな。俺は……)

 そう思うと、俺は教室に戻るのも億劫になってきた。