第九十二話 「ギルティ・ハート〜そのA〜」


 よくある学園ドラマなんかでは、あの時にすでにちょっとしたイベントが起きていただろう。

「何してんだ和泉? 帰らねーのか?」
「ああ、悪い。先に帰っててくれ……。また明日な」

 彼女が教壇の横に立った時、ほんの一瞬だけど俺と目が合った。
 そして名前を聞いた時に確信した。あの『倉谷 唯』だということが……。

(でも、向こうは俺のこと気付かなかったみたいだ……。やっぱり、忘れられてるのかな?)

 小学校以来だから七、八年ぶりくらいだ。互いに成長したから無理もないかもしれない。

「……このまま教室に残っててもしょーがねーな。帰るか」

 鞄の抱えて立ちあがる。

「でさ、週末にでもカラオケに誘ったらいいんじゃねーか?」
「男ばっかってのもなんだから、女子も数人入れようぜ。そのほうが来やすいだろ」

 教室のそこらでは、気の早い男達が色々計画を立てている。

(しかし、ずいぶん可愛くなったよなあ……。女って変わるんだな)

 と思いつつ、欲望渦巻く教室から退散した。

「――藤校〜、ファイト! ファイト!」

 廊下を歩くと、外からランニングの掛け声が聞こえてくる。
 夏休みの間に色々な大会があったろうに、また練習に励むとはご苦労様だ。

(大会と言えば……インターハイに出たあいつはどうなったのかな?)
 
 と思っていると、廊下の向こうを歩く後姿が目に入った。

「……!?」

 それはまさしく、たった今考えていた人物だった。

「――敬司! ひっさしぶりだなー」

 俺は駆け寄ってそいつの肩を叩いた。

「んー……敏樹か?」
「そうだよ」
「あー、夏休みほとんど会わなかったからなあ……。丁度一月ぶりってとこか」

 こいつの名前は『須永 敬司(すなが けいじ)』。
 同じこの学校の二年生で、小学校からの付き合いだ。

「インターハイ行ったんだろ?」
「まあな」
「で、どうだったんだ? 成績は」
「団体戦は初戦で敗退したけど、俺が個人でベスト8に入ったよ」
「おお〜! やるじゃねーか」

 こいつは剣道部に所属していて、その中でもかなりの腕前らしい。
 あまりその姿を見たことはないけれど、たまに噂で聞くことがある。

「で、これからさっそく部活か?」
「まあ……少しくらいなら時間あるから、ちょっと話しでもしていくか?」
「そうだな。せっかく久しぶりに会ったんだし」

 こいつは昔から剣道にハマってて、そのせいでかあまり会う機会が少ない。

「ついにお前も全国に通用するようになったか〜。なんかどんどん離れて行く気がするな」
「おいおい、そんなことないだろ。現にこうして一緒に話しているじゃないか?」
「ははっ、それもそうか」

 そういう取り止めのない会話の中、俺はあのホームルームのことを思い出した。

「……あのさ、小学校の時のことなんだけどよ」
「何?」
「『倉谷 唯』って子、憶えてるか?」
「ああ……憶えてるよ。たしか四年の時に引っ越して行った……それがどうかしたのか?」
「それがな、うちのクラスに転校生として入ってきたんだよ」
「はあ? すげー偶然だな、それ」

 そう言いながら思わず溜息が漏れる。

「だろ? なんだか笑っちまうようなシチュエーションだよ」
「それで、一体どうなったんだ? 向こうはお前のこと……」
「ちょっと目が合った程度だけど、どうやら気付いていないみたいだ。
 まあ、まだ自己紹介してないからな」
「明日にでも話してみるのか?」
「まあ……いずれ俺の名前はわかるだろうから、クラスの男達とでも一緒に話ししてみるよ」
「そうか。だけど、それでも気付かれなかったら悲惨だろうな」
「いや、まあ。それはそれでいいかもしれないんだ……」
「えっ? あ、そうか。色々あったもんなあ……」
「ええい、言うな。俺だって反省してんだから。今だって悪いとは思っているんだからよ」
「まったく、ガキだよな」
「昔は実際そうだったんだから仕方ないだろ?」
「じゃなくて、今もだよ」
「……うるせ」

 小学校の頃、よく彼女をイジメていた。
 特に自分は悪ガキというわけでもなかったけど。
 なぜか彼女にだけはよくちょっかいをかけていた。

「ほら、なんだっけ……。敏樹が校長室にまで呼び出された、あの事件」
「……弁当箱に蛙入れたやつだろ?」
「そうそう、共犯ということで俺も連れて行かれたやつだ。
 ただ一緒に蛙探しただけで、なんに使うのかは聞いてなかったのによ。
 とんだとばっちりだったよな」
「あー、悪かったよ。しかし……彼女本気で泣いたからな。あれはさすがに引いたな」
「当たり前だろ。まったく……大体なんだってあんなことをしたんだ?」
「さあ……、今更言われても」

 当時のことを思い起こしてみる。

「……っ!」

 その時、ズキリとどこかが痛んだ。この痛みは一体……?

「どうした?」
「い、いや。……なんでもない」

 再び痛みは襲ってこなかった。
 なんなんだろうとは思ったが、今はとりあえず無視した。

「……でさ、その彼女がすげー可愛くなっててよ。
 うちのクラスの男のほとんどが熱上げちゃったぜ」
「へえ、それは見てみたい気がするな」
「まあ、おまえは会っても問題ないだろうからな」
「それで、もし彼女がおまえのこと気付かなかったらどうするんだ?
 自分のこと説明するか?」
「いや、やっぱ知らない振りをするよ。
 今更蒸し返しても、楽しいはずがないだろうし……。
 それに、もし過去のことがうちの男子にばれたら何されるかわからないしな」
「なるほど。まあ、賢明な判断かな。
 でも、過去のことを謝る気持ちってやつがあるなら……」
「そりゃあるさ! なんだったら土下座したっていい。
 だから、もし向こうが俺のことを思い出したらその場で謝罪する」
「心的外傷ってのは深いからなあ……。
 そう簡単に忘れることじゃないだろ」
「ああ……とりあえず、彼女次第だ」

 アンフェアな賭けだというのは承知している。
 だけど彼女だって忘れたい出来事に違いない。
 ……俺のことを恨み募らせていない限り。

「そういえば、まだ彼女はバイオリンを続けているのか?」
「ああ、自己紹介の時言っていたな。前の大会で全国に出たそうだ」
「へえ、すごいな……」
「お前もそうだろ。小学校の時からずっと剣道一筋の剣道バカが」
「お褒めいただきありがとうよ。
 おまえもテレビゲームばっかやっていないで、何かやったらどうだ?」
「いやー、もうそんな年じゃないし……」
「何言ってんだよ、まったく。……じゃあ俺、そろそろ部活に行くわ」
「そうか、またな。部活がんばれよ」
「ああ、お前もな。今度会ったら結果を知らせてくれよ」
「わかったよ。さっさと行け」
「ははは、達者でな」

 そう言って軽く手を振って敬司は去って行った。


―――翌日


「お、俺……和泉っていうんだ。よろしく」

 クラスの男達がそれぞれ自己紹介をしていた中、俺もそれに紛れて何気なく挨拶をした。

「和泉……君?」
「う、うん」

(まさか、気付いたのか……!?)

 その考え込むような仕草を見て、俺の心臓の鼓動が早鐘のように打ちつづける。

「よろしくね」

 彼女はそう言ってニコリと笑ってくれた。

(……バレていない。やっぱ、忘れているんだ)

 俺は思わず胸をなでおろす。

「それでそれで! 俺が……!」

 するとすぐに他の男が入ってきて自己紹介を始めた。

「………」

 俺はもう用がないので、その輪から離れた。

(嬉しさ半分、がっかり半分ってとこかな……)

 だが、今は忘れているかもしれないけど、後で思い出すことがあるかもしれない。
 長い時間経ってから思い出されたら、俺は一体どう対応すればいいのだろう。

「なるべく彼女とは避けて生活するしかないのかな……」

 なんとも気の重いことである。

(いや! 俺は高宮さん一筋なんだ!
 他の女にかまけている暇なんてないんだ。これでいい……)

 あわよくば、隣りに居る浅田が彼女に興味を持ってくれればいいが。

「……そんな様子はねーな」

 見ると、隣りの騒ぎがうっとうしそうな感じだった。


―――昼休み


「ういっす、早速会いに来たぞ」

 俺は敬司のクラスへとやって来た。

「おいおい、いきなりだな……。まあいいや、廊下ででも話すか?」
「ああ、そうだな」

 敬司が今まで会話していた人と区切りを付けてもらい、俺達は二人で廊下へと出た。

「……結果から言うぞ。向こうは俺と気付かなかった」
「そうか。良かった……かな?」
「いやはや、なんとも微妙だよ」
「それで俺は……彼女に会ってもいいのかな?」
「まあ、その辺はおまえの自由だよ。でも、その際は……」
「わーってるよ。わざわざお前のことを言ったりはしないよ。安心してくれ」
「ああ、そうしてくれりゃ助かるよ」
「……でも、やっぱり」
「なんだ?」
「なるべくは俺からは会いに行ったりはしないようにするよ。
 どうせ今更会っても、大して話すことなんかないだろうし」
「そうか……。まあ、クラスも離れてるしな。
 学校もでかいから普段ばったり出くわすことはないだろう」
「それより問題はお前だろ? どうするんだ、これから先」
「うーん……なるべく印象残さないようにして、彼女を避けて生活するしかないだろうな」
「あからさまな態度はやめろよ。余計変に見えるからな」
「わ、わかってるよ」

 と言っても自信がない。実際俺は演技とかウソを付くというのが苦手なのだ。

「ウソ付くの下手だしな、おまえ」
「ひ、人の考えを読むな!」
「まあ、いつバレてもいいように心の準備はしておくんだな。
 俺が言えるのはこれくらいだろ」
「ああ、さすがにその時もすっとぼける自信はないよ……。でも、もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「い、いや。なんでもない」

 ……もしかすると、向こうもすでに感づいているのかもしれない。

(まさか、な……)

 すぐに心の中で否定したが、それでも一途の不安は拭いきれなかった。