「――そういやさ、正式な試合の日はいつなの?」
ストレッチを手伝ってもらっている時、慎也がそんなことを聞いてきた。
「……明日」
あたしは上体を折り曲げながら言った。
「明日!? うわ、ずいぶん急だね〜」
「あんたが緊張することじゃないよ、ただ見てくれればいいんだから」
「まあ、そうだけど……」
正直あたしは、彼がここまで手伝ってくれるとは思っていなかった。
「ねえ、慎也」
「なんだい?」
「どうして、ここまでしてくれるんだ? あんたは別に関係のない人間なのに……」
「いやだな〜……門下生になってくれって頼んだのはキミじゃないか?」
「そうだけど、稽古の手伝いまでしてくれるとは思わなかったから」
「はっはっは。こんなのお安いご用だよ」
「ねえ、本当は何かスポーツとかやってるんじゃないの? どうにも慣れているような気がして」
「ああ……。まあ、趣味でバスケとかやってるよ。中学時代も部に入っていたし」
「なるほどね……」
素人にしては結構いい身体をしていると思っていたら、バスケだったとは。
「……なんもお礼もできないけど、色々ありがとうね」
「い、いやだな〜。なんかこれから死地に赴くような感じだよ?」
「はは、そうかもね」
あの男だけは許せない。あんな奴に、負けたくはない。父さんのためにも……。
(あれは、ニ年前……)
「――お、お父さん!? どうしたの!」
とある日の晩、父さんは身体を引きずりながら帰って来た。
「わからない……多分、物取りか暴漢だろう」
「でも、お父さんにこんな怪我を負わせるなんて……」
「ああ、かなりの手練だった。しかも武器も持っていてな、不意を付かれてしまったよ」
「一体……」
「さあ、とにかく今日は遅い。明日一番にでも病院に行ってくるよ」
「警察は?」
「……とりあえず後だ。私個人を狙ってのことかも知れないからな」
「でも! こんなことされて……」
「誰かに恨みを買った覚えはないが、襲われてしまったのは事実だ。
このことを知られたら道場の評判を落としてしまうから、誰にも言うんじゃないぞ」
「……うん、わかった」
今思えば、こうやっておとなしくしていたのが悪かった。
多少評判を落としても、警察に知らせるべきだった。
「――せ、先生!」
その翌週、一人の門下生が血相を変えてやってきた。
「どうしたのかね?」
「あいつが……白峰が帰ってきました!」
そばで稽古をしていたあたしは大声で驚いた。
その前の年に破門になったあの男が、またこうして戻ってくるとは思わなかったからだ。
「わかった……私が会う。ここに連れてきてくれ」
「わ、わかりました」
門下生が扉のところへ行き、一人の男を連れてくる。
「……お久しぶりですね、師範」
白峰は、一年の間で大分強くなったかのように見えた。
荒々しい態度は消え、その代わり氷のように冷たい殺気を放っているかのようだった。
「白峰、なんのようだ? 君は去年、道場を去ったはずだが」
「ふふ、またここに戻ろうなんて思っちゃいませんよ。今日は一人の格闘家としてここに来たんですから」
「どういうことだ?」
「あなたに試合を申し込む。もちろん、受けていただきますよね?」
「お父さん! 今は……」
「雪那、黙っていなさい。わかった……受けて立とう」
「……!」
「さすがは師範だ。では、試合日は明日の十二時でよろしいですか?」
「ああ」
「では、これで……」
白峰はそのままあっさりと帰っていった。門下生も今の出来事を見て動揺していた。
「……気にするな! いつも通り稽古に励め!」
その言葉で門下生達が元の稽古に戻る。
「師範、大丈夫かな……」
「ばーか。あの白峰とはいえ、師範にかなうわけないだろ? 返り討ちさ」
そんな会話が聞こえてきた。でもあたしは不安を感じずにはいられなかった。
「あの男……もしかして」
お父さんが暴漢に襲われて怪我をしてからそんなに経たないうちに白峰がやってきた。
これがただの偶然とは思えない。
「ね、ねえ。お父さん」
「なんだ?」
「お父さんを襲ったやつって、白峰じゃないの?」
「……いや、わからない。
覆面をしていて顔を見られなかったからな、今となっては取り逃がしたことが残念でならない」
「でも! だからといって、試合を受けなくても」
「師範である私が挑戦から逃げるわけにはいかない。
まして、それが過去に破門をした相手とならば……」
お父さんは、あの暴漢が白峰だという確信があったかもしれない。
それでもあえて試合を受けたのだ。
その翌日、白峰は時間通りにやってきた。
「いやあ、急な話しなのにわざわざ空けてもらってすみませんね」
「構わないさ。こればっかりは、私と君との問題だろうからな……」
道場のみんなが見ている中、二人は開始線に立つ。
「白峰、一つ聞いていいか?」
「なんですか?」
「この一年……君は一体何をしていた? 見たところ、大分変わったように見えるが……」
「まあ、色々ですね。裏の世界に片足突っ込んでましたよ。おかげで世渡りが上手になりました」
「なるほど……」
そして二人は構える。
「……君を更生させるのが私の役目だった。
今ここでチャンスを与えられたのを、生かさなければならない」
「ふん、俺はもうあんたの手から離れたんだよ。俺は俺のやり方で生きていく。
その始まりとして、ここの看板はもらっていく!」
その言葉と同時に二人の闘いは始まった。
「――でいっ!」
……いや、もっと前から始まっていたのかもしれない。
先週の暴漢に襲われた時? 違う、もっと前。多分一年前に白峰が出て行った時から。
「くっ……!」
胸を打たれてお父さんが苦しむ。
門下生達はそれが白峰の攻撃が効いているのだと思っているだろうが、それは違うんだ。
「お父さん! がんばって!」
胴着の上からではわからないが、胴には包帯が巻いてある。
暴漢に襲われた時、アバラを痛めたらしい。それを知っているのはあたしだけだ。
その後の展開は、見るも無残なものだった。
防戦をしいられたお父さんは、白峰の連撃に耐えきれずに負けを宣告した。
「なぜだ……」
去ろうとする白峰にお父さんが言う。
「なぜ、そんな実力があるのに……」
そう言うと、白峰は振り返って言った。
「さあな……。一体なんのことだ? 俺はあんたに実力で勝った。
それはここにいるみんなが証明してくれる」
そしてそのまま帰っていった。
「おい、師範がやられてしまったぞ?」
「白峰はこの一年でかなりの実力をつけたらしいな……」
事情を知らない門下生達が勝手なことを言っている。
「……!」
違うと叫ぼうとした時、お父さんに止められた。
「いずれ……いずれ、あいつもわかる。己のしでかしたことにな」
だけど、その日が来ることなんてなかった。
それからの道場は、門下生が次々と減っていき、白峰の下へと着いて行く者がたくさんいた。
その後お父さんは、道場や暮らしのことで心労がたたり、一年半後にこの世を去った。
「……あたしは、父さんのカタキを取る! 白峰をこの手で倒してみせる!」
遺影の前でそう誓った。
(そう、あたしはそのためにここまでやってきた……)
「……さん、雪那さん?」
ふと、慎也の呼びかけで我に返った。
「えっ? 何?」
「何じゃないよ。ぼーっとしてどうしたの?」
「いや、ちょっとね……」
「ははあ、明日の試合を前に緊張しているんだね。まあ、無理もないか」
「違う! 緊張なんて……」
そうだろうか? 白峰は強い。勝てる確率なんてほとんどないだろう。
「まあ仕方ないよね。及ばずもながら、僕も応援するから」
「ありがとう……あんた、いい人だね」
「そ、そうかな?」
「うん。短い間だったけど、色々楽しかったよ」
こんなことに巻き込んでしまった彼には、本当に申し訳ないと思っている。
話し相手にもなってくれて、稽古の相手までしてくれた。
あたしはそんな人を、危険な目に会わせようとしているのだから。
「頼んでいて悪いけど……明日の試合、やっぱり来ない方がいいかもね」
これは元々一人で挑むべきことなのだ。彼がいなくても……。
「なんでだよ!? 僕はここの門下生なんだよ?
それが雪那さんの試合を見届けないでどうするんだよ!」
「でも、やっぱり危険だし……」
「ダイジョーブだって! 隅っこで大人しく見てるから。いざとなったら……」
「いざとなったら?」
一瞬真面目な顔になり、あたしに向かって言った。
「……キミを抱えてトンズラするさ」
「ぷっ……あはは! あんたらしいね……」
「そ、そうかな〜?」
そうして二人で笑った。
なんだか彼が来てから、あたしのピリピリと張り詰めた空気がなくなったみたいだった。
「……でも、ありがとう。なんだかリラックスできたみたい」
「いやいや、これくらい」
「じゃあ、明日一緒に行こう。そうね、十一時にこの道場に来て」
「うん、わかった」
この最近でできたあたしの唯一の友達。彼だけは絶対に危険な目には会わせない。
(あたしが勝っても、負けても……)
明日でお別れかもしれないのが、とても残念な気分だった。
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