第七十五話 「夏の日の海 (三日目)」

 まだ早い時間なのに、なんとなく目が覚めてしまった。

「ん……」

 寝返りを打つけど、すぐには寝つけそうになかった。

――ガチャ……

 すると、外からドアの開く音が聞こえた。

「……涼一?」

 すぐ向かいの部屋から聞こえたと思う。多分間違いない。

(こんな早くに……?)
 
 のろのろとベッドから起き上がって、あたしは部屋のドア開けて顔を出してみる。

「あっ……?」

 廊下の向こうから階段へと下りて行く人影は、間違いなくあいつだった。

(……どこかに行くのかな? ついでだし、あたしも行ってみよ)

 急いで着替えを済ませて、涼一の後を追ってみる。

――パタパタパタ……

 階段を下りてみたけど、涼一の姿はなかった。

「あら? どうもおはようございます」
「あ、どうも……。あの、涼一見ませんでした?」
「はい、さきほど見かけましたけど……海岸に散歩に行かれると言いました」
「あ、そうですか。どうもありがとうございます!」

 桐野さんに行き先を聞き、あたしはすぐに涼一がいると思う海岸へと向かった。

「えっと……」

 林を抜けて、まだあまり人気のない海岸に出る。

「……いたっ!」

 見覚えのある後姿に向かって駆け出す。

「ねえ! ちょっと待ってよー」
「……恵美? どうしてここに」
「もう、水臭いじゃないのよ。散歩に行くなら誘ってくれても良かったのに」
「まだ寝てると思っていたからな。たまたま早く起きた俺に、無理に付き合わせるのも悪いだろう?」
「おあいにくさま、あたしはあんたよりは早起きですよ」
「そうだったな……」

 そのままあたし達は、二人で海岸を散歩した。

「恵美、部活はどうなんだ?」
「ん? 今日帰ってから午後に参加。明日からはほとんど休みなしね」
「そうか、大変だな」
「ううん、好きでやってることだし。大変だなんて思ってないよ」
「そうだな。今更、聞くことでもないか」
「そーゆーこと。涼一も部活とかしないの?」
「それこそ今更だな、もう遅い」
「そんなことないわよ。スポーツなら大体の素質と才能はあるんだから、今からだって十分通用するわよ」
「だがな……」
「なんだったら、あたしの口利きで陸上部に入れてあげてもいいわよ。
 男子は今、ちょっと戦力不足で悩んでいるらしいから、きっと歓迎されるわよ?」
「前にも言ったと思うが、今のところ興味はない。その好意だけ受け取っておく」
「そう、残念ね」

 しばらく歩くと、波打ち際に転がっているビンを見つけた。

「あっ! あれって、あれじゃないの? ボトルの中に手紙が入ってるとかというやつ」
「そんなものが転がっているわけないだろう……」
「だってほら! なんか、紙みたいなの入ってるじゃない?」

 あたしはそのビンに近寄ってみた。

「観光客が捨てたゴミだよ、きっと」
「わかんないわよ、そんなの……」

 それを拾い上げて、キャップを外して中身を取り出してみる。

「えっと……」

 何枚かの紙の束を広げ、中身を見てみる。

「……何これ?」
「飲み屋の請求書に交通違反の切符、金融ローンの催促状まであるな。中々現実的だな」
「なによそれー! なんでこんなのが海にあるのよー!」
「つらい現実を捨て去りたかったんだろう。多少凝ったやり方が、まだ救いがあると言えるかもな」
「こ、こんなのいるかあーっ!」

 紙束をビンに押し込み、あたしは海に思いっきり放り投げた。

「もう、ムードぶち壊しじゃないの……」
「ん、何か言ったか?」
「ううん! こっちのこと」
「?」

 そしてまた、あたし達は砂浜を歩き出す。

「♪〜♯〜……」

 すると、涼一が何気に鼻歌を歌った。

「……何それ?」
「ちょっとな。この海に来る途中で教わったんだ」
「へえ、めずらしい……」

 聞いたことのない曲だったけど、結構いい感じだと思った。

「〜♯〜♪〜♭……」
「中々うまいじゃない。その曲、なんて言うの?」
「さあ……。多分、名前はまだないと思うぞ」
「え?」

 あたしはしばらく、その鼻歌と波音を聞いていた。


―――少し離れた場所


「ま、待ってくれよ〜。正弘、飛ばしすぎ……」

 息も絶え絶えで立ち止まり、僕は正弘に懇願した。

「おまえなあ、日頃の鍛錬不足のせいだぞ? この程度のランニングで根を上げてどうすんだよ」
「だって……こんな朝から動けるわけないじゃないか〜」
「まったく、夜遊びしすぎだぜ」
「ちょっと付き合うだけって言っただろ?
 なんでいつのまにか、同じメニューをこなさなきゃならないんだよ」
「やれやれ……ん?」

 正弘は海の方を見て、何かに気付いたらしい。

「あれ、浅田じゃないか?」
「えっ、どこどこ?」
「ほれ……あそこ」
「ああ、本当だ。ついでに恵美さんも一緒だねぇ〜。何やら朝から二人っきりで逢引とは……」
「同じ家に住んでて逢引もくそもねーだろ?」
「ちっちっち、そういうのとは違うんだよ。やっぱね、海は強いね」
「何言ってんだよ……」
「ふふふ、現場を突き止めるまで僕は動けないね。というわけで正弘は先に行ってていいよ」
「……そう言うだろうと思ったぜ。ほれ、さっさと来い」
「な、なんだよ! 引っ張るなって!」
「人の恋路を邪魔する気はないんだろ?」
「そりゃそうだけど……見てるくらい、別にいいじゃないか〜」
「だめだ、なんか汚れる」
「うあっ!? なんかヒドイこと言った!」
「疲れたんなら別荘にでも戻ろうぜ。水分補給しないとな」
「あああ……」

 というわけで僕は、正弘に強引に引きずられていった。


―――波打ち際


「なんか、ちょっと疲れちゃったなー。座らない?」
「別にいいが、汚れるぞ?」
「へーきよ。ほら、座りなさいよ」
「………」

 あたし達は二人並んで座り、海の方を眺めた。

「この海来て、色々あったわねー……。涼一はどうだった?」
「まあ、悪い体験じゃなかったと思うな」
「何よそれ? 素直に楽しかったって言えないの?」
「ああ……」
「やーれやれ、さすがにそこんところは変わんないわねー」
「………」
「でも、二年生になってからの三ヶ月で、ちょっとずつだけど変わってきたわよ」
「……そうらしいな」
「あのね、自分のことなんだからもうちょっと関心持ちなさいよ」
「おまえは……」
「えっ?」
「恵美は……今のままの俺は、嫌なのか?
 今の俺は、存在価値がないとでも」
「そ、そういうわけじゃないけど……。
 でも、少しくらいみんなと仲良くしたってバチ当たんないわよ?」
「ああ、わかってる。でも俺は……」
「そうやって、なんでも一人で背負い込むの涼一の悪い癖だよ?」
「………」
「お願いだから人を頼ってよ。あたしも、できるだけのことするから……」

 そう言って、そっと涼一の手を握る。
 それは堅くてごつごつしていて、なんかハサミみたいなものが……。

「……って! ヤドカリじゃないのー!?」

 ぶんぶんと手を振るけど、ヤドカリのハサミはあたしの指を離さなかった。

「いたた……っ! もう!」
「ちょっとじっとしていろ……。ほら、取れた」

 あたしの指から離れたヤドカリは、そのままよちよちと砂浜に消えて行った。

「なんでよー、こんなんばっかり……」

 なんだか、むしょうに悲しくなってきた。

「指、大丈夫か?」
「えっ?」
「ああ、血が出てるな」
「あっ……?」

――すっ……

 すると涼一は、あたしの指先を自分の口にくわえた。

「ちょ、ちょっと……」
「………」

 一分くらいそうしていただろうか、やがて口から指が離れた。

「……まあ出血は止まったが、とりあえず戻ったら絆創膏でももらって貼っておくんだな」
「うん……ありがと」

 ちょっと痛む指先を見つめながら、あのヤドカリに感謝したくなった。

(そうよ、涼一の心はずっと変わっていないんだから……)

 心配なんてすることはない。きっと、これからも大丈夫だろう。

「そうだな、そろそろ戻るか……」

 そう言って涼一は立ちあがった。

「あっ……」
「どうした?」
「ううん。ねえ、手貸して?」
「まったく横着だな……」

――ぐっ……

「えへへ……」
「?」
「じゃあ、早く戻ろうよ! 朝食も出来てるかもしれないし」
「あっ、おい……」

 掴んだその手を離さずに、あたしは涼一を引っ張って行った。