第七十二話 「夏の日の海 (二日目 朝)」

――こん、こん

 俺はそのノックの音で眠りから覚めた。

(……朝か)

 そう思い、寝返りを打つ。

「涼一さん、起きてますか? 朝食の用意できているらしいですよ」

 恵美にしては、随分礼儀正しい物言い……。

「……ああ、そうか」

 ここは家ではない。昨日から世話になっている村上の別荘だ。

――がばっ

 ということは、この声は恵美ではない。

「北村か……。わかった、今行く」

 毛布をのけて、ベッドに腰掛ける姿勢になってそう伝えた。

「あ、はい。わかりました。それでは後で……」 

 そう言い残して、去って行く気配を感じた。

「さて、と……」

 立ちあがって着替えをする。
 ジーンズとTシャツという簡単な格好になって、俺は部屋を出た。

――ガチャ……

「おっ、涼一君。おはよー」

 部屋を出たところで、廊下にいた瑞樹と出くわした。

「ああ……」

 そう返事し、軽くアクビを洩らす。

「ややっ? 涼一君の寝起き姿とは、貴重なものが見れたね〜」
「……下に降りるぞ、飯ができているらしいからな」
「はい、はーい」
 
 そして俺達は、下の階へと降りた。

「おはよ、涼一。よく眠れた?」
「まあな……」

 食卓には、既にほとんどの者が揃っていた。

「あれっ? 正弘は?」
「何言ってんのよお兄ちゃん。正弘さん、朝のトレーニングに行ってるらしいわよ。
 少しは見習いなさいよ〜」
「僕は天才肌なんだよ。朝っぱらから砂浜のランニングなんてできないさ」
「エラそーに……。浅田先輩なら別ですけどね〜」
「そう、涼一君は別」
「俺を特別視されても困るが……」

 そして村上が帰ってきて、俺達は朝食を始めた。

(さて、今日はどうするかな……?)

 コーヒーを喉に流し、窓から望める海を眺めながら考えた。

「浅田、何も予定がないってツラしてるな?」

 すると村上が、俺の考えを見透かしたように言ってきた。

「海釣りでもどうだ? 物置に道具はそろってるから、良かったら貸すぜ」
「釣りか……。いいな」
「そうか、じゃあ後でな。場所も案内するからよ」
「ああ、すまない」

 と言うわけで、俺は釣りをすることに決めた。
 せっかくだから、持ってきた小説とかもそこで読み潰そう。


―――とある岬


「……ここが穴場だ」 

――ザザーン……

 村上に案内されたそこは、海岸の端の林を抜けて岩場を渡った所だった。
 そこは人気がなく、波の音くらいしか聞こえなかった。

「小さい頃、よくここに連れて来てもらったのさ」
「……そうか」
「じゃ、せいぜい楽しんでくれ。大物期待してるぜ」

 そう言って、村上は俺を残して去って行った。

「さて……」

 しばらくその場に立ち、遠く海を眺める。
 水平線の辺りで、一艘のクルーザーらしきものが見えた。

「……釣りでも、するか」

 借りた道具を取り出してセッティングをする。
 途中で買った餌を付け、糸先を海に放りこんだ。


―――昼前


 少し泳ぎ疲れ、私は別荘に戻っていた。

「あっ、どうも……」

 着替えをして降りてきたところで、桐野さんと出会った。

「皆さんは、お昼はどうなさるのでしょうか?」
「えっと……多分、それぞれで食べるのではないでしょうか?
 ずっと海岸にいるみたいですし」
「そうですか。釣りに行かれた方がいるようですが……」
「はい、涼一さんですね」
「せっかくですので、お弁当でも持って行かれたほうがよろしいのではないでしょうか?」
「えっ?」
「私が御用意致しますので、よろしければ」
「あっ、はい。わかりました! 私が……届けさせていただきます」

 そして私は、桐野さんが用意して下さったサンドイッチと飲み物を持ち、
 涼一さんのいる釣り場へと向かった。

「確か、こっちの方に……」

 少し歩きづらい岩場を歩き、岬の方を見る。

「あっ……!?」

 遠く岬に、たった一人で釣り竿を立てている人影が見えた。

「……涼一さん」

 私はそう確信し、彼の元へと急いだ。

――ザザァー……

 波音も大きくなり、彼の姿もはっきり見えるようになる。

「……ん?」

 すると気付いたのか、涼一さんは私の方を振り向いた。

「北村か、どうしたんだ?」
「あ、あの。お昼はまだでしょうか?」
「まあ、食材はあるがな。あいにく食べる方法がない」

 そう言って涼一さんは、近くに置いてあったクーラーボックスを見た。

「そ、そうですか。よろしければ、あの、お昼を持ってきたんですけれど……」

 涼一さんに見えるよう、おずおずとバスケットを前に出した。

「そうか……。すまないな、わざわざこんな所に運んでもらって」
「いえ、いいんです。それで、あの……よろしければ、ご一緒しても……よろしいでしょうか?」
「ん? ああ、別に構わないが」
「あ、ありがとうございます!」

 そうして私は、涼一さんの隣りへと座った。
 バスケットを開け、中からサンドイッチを取り出す。

(二人きりで食事するなんて、始めて……)

 お昼を届けたらと言って、お弁当を渡してくれた桐野さんに本当に感謝していた。
 そして今日ここの海に来て、本当に良かったと思っていた。

「………」

 涼一さんは、特に何も言わずにサンドイッチを食べている。
 私は、それでもいい。お邪魔でなければ、ずっとこうして一緒にいたかった。
 笑顔も、優しい言葉もいらないから、ずっとこうして……。

「こうしているのも、悪くはない……」
「えっ……!?」
「釣りというのは、ただ一人で何もしゃべらず、じっとしているのが許される。
 そう思えば、たとえ釣れようが釣れまいが、俺には関係がない」
「はあ……」

 そう言われ、内心に膨らんだ期待がみるみる沈んでいくのが分かった。

「そう、ですか。あの……」

 食べ終わったら、私は帰りますと言おうと思った。

「だが、本当に穴場らしくてな。困ったことによく釣れるんだ」
「えっ?」 
「こうしている今も……」

――ピクッ!

 立て掛けてあった釣り竿が反応した。釣り針に魚が掛かったらしい。

「……ということだ。すまないが、そこの網を取ってくれないか?」
「は、はい!」

 私は急いで置いてあった網を取り、涼一さんに渡そうとした。

「あの、網……」
「そのまま構えててくれ、今引き上げるから」

――ジジジジジ……

 涼一さんが釣り竿を握ってリールを巻く。すると、海面から一匹の魚が踊り出た。

「あ、あの! 涼一さん……」
「ああ、網を突き出してくれ」
「は、はい。こうですか?」
「そうだ。今……」

 そして、私の持っている網の重量が増した。

――ビチッ、ビチッ……

「うわあ……すごいですね」

 こうして釣り上げたばかりの魚を見るのは始めてだし、
 そのお手伝いとして網を持つのも始めてだった。

「これで何匹目かな……」

 そう言って開いたクーラーボックスには、本当に何匹もの魚がいた。
 馴れた手つきで網から魚を取り出し、その中へと放りこんだ。

「すまないな、手伝ってもらって」
「いえ! いいんです! お役に立てて、私嬉しいです……」 

 一瞬だけでも、涼一さんと共に行動できたのが何よりも嬉しかった。

「とりあえず、クーラーボックスには空きがあるが……。北村はどうするんだ?」
「えっ、私ですか?」
「ああ。せっかくだから、ボックス一杯になるまで釣りを続けようと思っているんだが、
 網を持って手伝ってくれる人がいてくれたら助かるんだ」
「じゃあ! そ、その……私が?」
「まあ、他に予定があるなら仕方ないが。俺に束縛する権利はない」
「い、いえ! 予定なんて! はい。手伝わせて……もらいます」
「すまない。じゃあとりあえず、食べかけた昼飯を終わらそうか?」
「あ、はい」

 お昼を済ませたあと、ほんの一時間ばかりだけど私は涼一さんのお手伝いをさせてもらった。
 たった二人で共有したこの時間は、きっと忘れないだろう。

「……そろそろ終わらせるか」
「はい、そうですね。それにしても一杯釣れましたね」
「この魚、持って帰ってもいいのかな?」
「きっと、桐野さんがお料理してくださいますよ。涼一さんの釣ったお魚、私食べたいです」
「そうだな……」

 そうして私達は、荷物をまとめてその場を後にした。

「あの、重くないですか?」

 ぎっしりつまったクーラーボックスの紐が、涼一さんの肩に食い込んでいる。

「ああ、このくらい大丈夫だ。それより、足元に気を付けろ」
「はい……」

――ずるっ!

「きゃっ!」

 そう注意された瞬間、私は足元を滑らした。このままでは、堅い岩場に身体を打ちつけてしまう。

――がしっ……

 だけど、その衝撃はいつまでたってもやって来なかった。その代わり、力強い手が私を支えていた。

「あっ、涼一さん……?」

 気付くと、私は涼一さんに寄り添うような形で支えられていた。

「えっ!? あ、あの……すみません!」

 私は急いで涼一さんから離れた。

「……まったく、言ったそばから」
「す、すみません! 私ったら、本当にドジで……」

 申し訳なく思い、私は頭を下げた。いつも私は、涼一さんの負担となっている。

「いいさ……」

 そう言って先に歩き出す。

「あ、あの……」

 怒ってしまったかと思い、その場に立ち尽くす。

「……それくらい、いつでも支えられるからな」

 そう聞こえた瞬間、私は彼の元へと駆け寄った。