第七十一話 「夏の日の海 (一日目 夜)」

 日が落ちる頃、村上の別荘へと戻った俺達を待っていたのは、なんとも豪華な食事だった。

「うわー、いいんですか?」

 その品々に、恵美が目を丸くして見ている。

「いいんだって〜、僕達はお客なんだから。ねっ、正弘」
「一応、ここの主人である俺に対してその態度か?」
「あっははは……」
「ま、いいけどよ。ホントはそんなガラでもねーからな」
「だね」
「やっぱオマエ飯抜き」
「ウソだって〜」

 そして俺達は、それぞれ食卓を囲む。

「いっただきま〜す!」
「これだけのお食事、用意するの大変だったでしょう?」
「いえ、お仕事ですから。馴れております」

 そうやって、俺達は食事にありついた。

「ねえ、村上君」

 しばらく食事の場で談笑していた頃、恵美が村上に声を掛けた。  

「ん?」
「村上君のお家って、何をやってるの?」
「あー、それは……」
「御説明しましょう」
「いい、俺が言う……。村上グループって知ってるだろ?」
「えっ? あの……!?」
「そう。驚いたことに、俺はそこのオボッチャマだったって訳だ。笑っちまうよな」
「そして、うちの道場の将来のスポンサー」
「聞いてねえぞ、そんなの」
「今思いついた」
「あのな……」
「ねえねえ、それじゃ将来は……?」
「あー、無理無理。オレなんて、後継ぎなんてガラじゃねーからな。玉の輿狙おうったってダメだぜ」
「そういうわけじゃないけど……。へえー、でも知らなかったなー」
「ワリぃな、説明しなくって」
「ううん、いいよ。本当は、言いたくなかったんでしょ?」
「まーな」

 村上グループというのは、テレビなどを見ない俺でも知っている名前だった。
 あいつがそこの御曹司だったとは、人は見かけに寄らないものだ。

「……皆様、食事が済みましたなら、お風呂を御用意してしております。
 どうぞ御自由に御利用下さい。ただし、十二時以降の御利用はご遠慮いただきます」

 そろそろ食べ終わる頃に、桐野さんがそう言った。

「フロか〜。よし、涼一君。ここはいっちょ、男同士の裸の付き合いでもするか!」
「お、お兄ちゃん?」
「オマエ、両刀使いだったのか……。あぶねぇ、あぶねぇ」
「言葉のアヤだって〜」
「ムキになるのがあやしいな」
「うん」
「あ、あのね。僕はただ……」
「それはどうでもいいとして……。俺は後で、一人で入らせてもらうさ。ご馳走様」
「あっ、浅田先輩……。お兄ちゃんのせいだー!」
「なんでだよ〜、大体涼一君はフロに入るからって、加奈が気にすることでもないだろ?」
「それは……その……」
「あーっ! このインラン妹!」
「両刀使いに言われたくないわよ!」

 そんな騒ぎを後にし、俺は食後の散歩にでも行こうと思った。


―――外 


 あの後、屋台が終わったのが日暮れ前すれすれ。
 海岸を探しまわったけど、高宮さんの姿は見られなかった。

「会ったからって、何ができるでもないんだよな……」

 きっと、近くにはあいつがいるだろう。俺なんかが入りこむ隙間はない。

「わかってんだよ……。そんな姿見たら、さらにショック受けるくらいさ……」

 それでも、彼女がここの海にいると思うと、居ても立ってもいられなかった。

『近くにある知り合いの別荘に……』

 その言葉を思い出した俺は、夜中だというのにその別荘とやらを探していた。

「とりあえずここから……。それにしても、でっかいなここ……」

 林を抜け、建物の裏手らしき場所に出る。
 だけど、玄関とかに回ろうとせず、そこに突っ立ったきりだった。
 もし、高宮さんがここに居たとしても、俺がどうこうできるものじゃない。

「そーだな……。帰って、寝よ」

――ザプン……

 そう思ったとき、何か水の音が聞こえた。

「?……」

 波の音ではない、これは家の中から聞こえる。

「あっ!?」

 注意してみると、一箇所電気のついた窓から湯気が洩れていた。そうなれば、答は一つ。

「ふ、ふろだ。しかも……」

 今度聞こえた声で、俺は硬直してしまった。

「あっ、ちょっと熱いわね……」

 聞き間違えるはずもない、この声は高宮さんだった。

「えっ、そうですか〜」
「水で薄めちゃえば?」
「勝手にそんなことしていいんでしょうか……?」

 しかも複数。

(こ、これは! 天が我に与えたもうた好機! これを生かさない訳には……)

 見ると、窓の高さは背を伸ばせばなんとか目が届くと思われる。

(た、高宮さんの、ハ、ハダカが……)

 呼吸を押し殺し、細心の注意で歩く。

――かぽーん……

 なんとか、窓の下に来るまで気配を気付かれることはなかった。

(こ、この上に……!)

 そう思った瞬間、己の理性の天使とやらがささやいてきた。

『いいのか? こんなことしたら、人間としてどん底に落ちてしまうぞ?
 しかも、憧れの高宮さんに対して』

 すると、強烈な煩悩の悪魔が負けじとささやく。

『何を考えてる? こんなチャンスは、一生に一度あるかないかだ。迷うまでもないだろう?』

 そうなんだ、たしかにそうだけど。

『もしばれたら、夏休み以降ずっと口を聞いてもらえなくなるぞ。
 それだけならまだいい、のぞき男としてのレッテルを貼られて、学校生活を耐えられるのか?』

 ……それはいやだ。高宮さんと話しをしたい。

『そんなものバレなければいい! どうせ減るものじゃないんだ。
 バレなければ、彼女も自分も傷つかずに済む。
 最悪見つかったとして、完全に顔を見られなければ大丈夫だ。あとは逃げ切れ』

 ばれなければ……。なんて、甘い誘惑だ。

『それが好きな女の子に対する仕打ちか!? 自分の気持ちは、そんなものだったのか!?』

 そうだ。俺の気持ちはそんなものじゃない。

『何を言っているんだ! 彼女は俺のことなんて気に掛けてもいない。
 彼女は浅田に夢中なんだ! だったらいっそのこと……』

 浅田……。そう、彼女はあいつに惚れている。これも現実だ。

『だめだ! 彼女が誰かを好きなんて関係ないはずだ。
 自分はただ、純粋に好きなんだろう? こんなことをする必要はないはずだ』
『人間としての欲求にしたがって何が悪い!?
 幸いここには誰もいない、夜中ということで条件は整っている。これを見逃すのか!』
『のぞきは立派な犯罪だ!』
『犯罪がなんだ! この機会を逃す方が、心に悔やまれるぞ!』
『さあ、どうする!?』
『どうするんだ!?』
『一体』
『自分は』
『どう……』
『……!』

 葛藤、ジレンマ、心の板挟み。

――がっ!

 その瞬間、俺は自分の頬を殴りつけていた。

(よしっ、頭が冷えた……)

「ねえ? 何か聞こえなかった?」

(や、やば!)

「気のせいじゃないのー?」
「そうね……」

(ほっ……)

 俺は来た時と同じように、忍び足でその場を離れた。

「……ったく、俺ってやつはアホ丸出しだな」

 誰にも見られないうちに、俺は家に戻ろうとした。
  
「……和泉か?」

 その声が聞こえた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような気分になった。

「あ、あ……」

 逃げ出すこともできず、おそるおそる振り向く。

「やっぱり和泉じゃないか……。こんなところで、一体何をしているんだ?」

 建物の影から出てきたそいつは、いわずもがな浅田だった。

「いや、その……」
「高宮からこの海にいるとは聞いていたが、こんな夜中に散歩か?」
「散歩……? ああ! そうなんだ! それでついでに、高宮さんにでも会えたらって……」
「そうか。高宮なら中にいるぞ、会って行くのか?」
「い、いや! やっぱりいいよ。俺が入り込む余地なんてないはずだから……。
 浅田は、こんなところで何を?」
「俺も散歩だ」
「そ、そうか! だったら、一緒に散歩しようか?」
「えっ?」
「ほら、取り合えず海岸でも」
「まあ、いいが……」

 取り合えず、なんとかその場を離れたかった。
 いつ浅田が、風呂場のことに気付くか知れたものじゃない。

――サザァーン……

 男二人、しかも一方は恋敵という、
 ものすごく妙なシチュエーションで俺達は砂浜を歩いていた。

「……波音というのも、良いものだな」

 浅田が立ち止まり、海に向かって言う。

「まあな、昼間の雑踏に比べれば、天と地の差だよ」
「いつから働いているんだ?」
「夏休み入ってすぐだよ。やってるのが親戚の家でな、手伝いとして駆り出されたんだよ」
「暑いだろう?」
「当然! 炎天下でヤキソバ焼いてみろよ、地獄だぜ」
「ああ、そうだな……」

 月明かりの海。他に見える人影は、きっとカップルか何かだろう。

(何やってんだ……俺)

 成り行きとは言え、浅田と二人きりになってしまった。
 だけど、結構こういう場面が多いように思える。

「和泉、おまえ言っていたよな?」
「えっ? 何を?」
「俺が入り込む余地なんてないはず……と」
「あ、ああ。そう言ったっけ?」

 こいつは一体、何を言いたいのだろう?

「俺もそうだった」
「そう……って、何が?」
「あいつらに入り込んでいることがな……」
「どういうことだよ? 解りやすく言ってくれよ?」
「俺は、もともと一人だった」
「ああ、クラスが一緒になった時からそんな風に思ってたよ」
「いつのまにか、周りに人が出来始めた。最初は追っ払っていたんだがな……」
「……高宮さんもだな?」
「ああ。そういえば、彼女が最初に話し掛けてきたな」
「それは前に聞いた。なんで、他人を突き放すんだ?」

 この質問は、ぜひとも聞いておきたかった。
 高宮さんが好きな、この男の人となりを知っておきたい。

「……贖罪さ、過去のな」
「しょくざい?」
「認めたくないが、俺はどうやらトラブルを巻き込みやすい性質らしい。
 この性格になる前も、今も……な」
「な、なんだよ、それって。
 つまり……それに巻き込まないために、他人を突き放すのか?」
「ああ」
「そんなの、そんなのって間違ってるだろ!?」
「………」
「トラブルなんて誰にでもあるだろ!?
 そんな理由で他人を拒むなんて、オマエにそんな権利があるのかよ!」
「わかってるさ……。言われなくてもな」
「だったら……!」 
「だから、もう逃げないようにする」
「えっ?」
「過去も、今も、これから先のことも……」
「………」

 なんだかよく解らないけど、こいつはこいつなりに苦労しているらしい。
 昔何があったかは知らないが、よっぽどのことがあってこうなったのだろう。

「……すまなかったな、俺も偉そうに言って」
「いや、いいさ」
「じゃあ俺帰るよ。考えて見れば、明日も朝早いんだった」
「ああ、またな……」

 そして、俺達はその場で別れた。

――ざっ、ざっ……

 砂浜を歩き、一人考える。

(あいつ、本当は良い奴なんだろうな。それに、色々な苦労をしている。
 高宮さんは、それを見ているんだ……)

 俺は勝てるだろうか? あいつに。