「――あっ、海が見えましたよ」
山道を歩いてしばらくして、崖上から遠く、広い海原が望めた。
「ほう、どちらですか?」
「向こうです。ああ、気を付けてください。ガードレールの下、絶壁ですから」
「この向こうですか……。さぞ良い景色でしょうね」
「ええ」
「ああ、風に乗って、潮の香りがする。いい気持ちだ……」
彼は見えない代わりに、肌で感じているかのようだ。
「♪〜♯〜……」
すると彼は、ふとハミングを洩らした。
「……それは?」
「ふとね、思い浮かんだんですよ。今ちょっと考えている曲なんですけど……」
「ああ、音楽家ですからね」
「いやあ、お恥ずかしい……♯〜♭〜」
そう言って、またハミングを始める。
「♪〜♯〜……ですか?」
「あっ、そうです。お上手ですね」
「いえ……」
そしてしばらく、俺達はハミングを口ずさんだ。
「〜♯〜♪〜♭……」
「あれ? さらに、先を続けましたね」
「ああ、ちょっと。こんな風に続くものかと思って、つい……」
「いえ、いいんですよ。なるほど、そう続きますか……」
「すいません。素人がでしゃばってしまって」
「いやいや、おかげで助かりました。使わせてもらってもいいですか?」
「まあ……、こんなのでよければ」
「あっ、そうだ」
そう言って彼が取り出したのは、前に一度見せてもらったテープレコーダーだった。
「せっかくだから、今の録音させてくださいよ」
「えっ?」
「♪〜♯〜。ほら、一緒に」
「あっ、はい……♯〜♭〜」
「〜♯〜♪〜♭……」
しばらく一緒にハミングし、彼はそれを録音した。
「いや、どうもありがとうございます。おかげでいいのが作れそうですよ」
「いいんですか? 俺の声なんかが入って」
「はい。なかなか良かったですよ」
「はあ……、恐縮です」
そして俺達は、ふたたび歩き出した。
「線路があって……たぶん、あそこが駅でしょう。とりあえずそこに向かいますか?」
「ええ、そうしましよう。あなたはそれから、どうするんです?」
「俺は……そういえば、海に遊びに来てたんだ。待ってる人達がいますから、そこに行きます」
「ははっ、忘れてましたか?」
「色々ありましたからね」
「その人達にとっては、今日はこれからですよ。がんばってください」
「ええ」
そうして駅に辿り着く。
「着きましたか……。じゃあ、ここでお別れですね。
そういえば、あなたのお名前を伺っていませんでした」
「ああ、そうですね。俺は、浅田涼一といいます」
「私は『相良 慎太郎 (さがら しんたろう)』と言います。あの……」
「なんですか?」
「いえ、やっぱりいいです」
「?」
「じゃあ……」
――すっ
彼が右手を前に差し出した。
「最後に握手をしましょう」
「あ、はい」
――がしっ
「また、お会いできるといいですね。浅田君」
「……そうですね」
そして俺達は駅で別れた。
俺は、今待っていてくれる友達の所に。
彼は、今はいない昔の友達の所へと。
(不思議な人だったな……)
地図を片手に、俺は村上の別荘へと向かった。
―――駅前
「先生!」
浅田君と別れたあとすぐ、私を呼びかける声が聞こえた。
――タッタッタ……
「いやあ、よかった。ご無事でしたんですね。ニュース聞いて飛んで来たんですよ」
そう言いながら近づいてくる。
「ご心配をかけて申し訳ございません。ですが、私はこの通り無事ですよ」
「ええ。でもやはり、お付の人を連れ添うべきですよ。先生の身に万が一のことがあれば……」
「お心遣いは嬉しいのですが、この年に一回の弔いは私が一人で来るべきです。
今日はまあ、例外ですが」
「ですけど……。そういえば、ここまでどうやって来られたんですか?」
「山道を歩いて来たんですよ。付き添ってくれた人がいましてね」
「へえ、その人は先生のファンですか?」
「いや、私のことはまったく知らないようでしたよ。まだまだ私も知名度が低いですね」
「なんて失礼な奴ですか! ミュージック界の超大物を前にして知らないなんて」
「……彼を侮辱するのは、許しませんよ」
「し、失礼しました。で、その方は……?」
「行ってしまわれました。友達が、待っているようでしたから」
「はあ……。で、先生はこれから?」
「ええ、例年どおりあそこに行きますよ。ああ、あなたはここで待っててください」
「はい。あの……つかぬことをお伺い致しますが、曲の方は?」
「ああ、いいのができそうですよ。今回は思わぬ手助けがあったもので」
「それは一体……」
「内緒です。じゃあ、またあとで」
「あっ! 先生!」
私はその人をそこに残し、あの事故現場へと向かった。
――かつ、かつ、かつ……
白杖が鳴らすその道は、すっかり通いなれた道だった。
(昔は、何度となく抜け出して来たものだ……)
今は落ちついて年に一回になったので、
周囲の人間も一人で外出することを渋々承知してくれた。
「………」
そして、あの現場へと辿り着く。
花の匂いがするのは、ファンの誰かが置いて行ってくれたのだろう。
今でも忘れられていないということは、ありがたいことだ。
「みんな……今年は、新曲を持ってきた。まだ未完成だが、聞いてくれ」
そして私は、あのハミングを歌う。
「〜♪〜♭……」
彼、浅田君と出会い、完成が見えてきた新曲。
(どこか、私と似たところがあった……。彼は、自分つらい過去と向き合えるだろうか……?)
「〜♯〜♪……」
ひとしきり歌い終り、私は両手を合わた。
「コージ……ケイスケ……そして……ルリコ……」
メンバーの名前を呟き、その場を後にしようとした時だった。
「あ、あの。相良、慎太郎さんですよね?」
突然、女性に声を掛けられた。
「はい、そうですよ」
私はその声の方向に振り向く。
「あ、やっぱり! あの、私ファンなんです!」
「そうですか。するともしかして、そこのお花は……?」
「はい、先ほど。それで帰ろうとしたところで、相良さんがお見えになって……」
「それはそれは、わざわざどうもありがとうございます。
今の私はともかく、昔のメンバーのことを憶えていらっしゃって、光栄です」
「いえ、そんな……。『ラピス・ラ・ズリ』のことは、忘れたりはしません」
「ははは……」
「えっと、あの……先ほど口ずさんでいらしたのは?」
「ああ、あれですか。新曲ですよ」
「やっぱり! じゃあ、相良さんがプロデュースする……」
「ええ。神之木鈴乃さんの、ニューシングルです」
―――別荘前
地図を頼りに歩くと、そこは海岸に近い林の中にあり、中々居心地の良さそうな建物があった。
「ここか……。車もあるから、皆来ているな」
別荘に近づき、玄関があると思われる場所へと近づくと。
「あっ! 涼一!」
と、聞き覚えのある声が掛けられた。
「ばかーっ! 心配したんだからー……!」
そう言って駆け寄ってきた。
「おお、やっぱり無事だったんだね。涼一君」
「だろーな」
「よかった〜」
そして、みんなもぞろぞろと出てきた。
「ねえ浅田君、本当に電車に乗ってたの?」
「ああ」
「でも、踏切事故があったって、ニュースで聞きましたけど……」
「まあな。もし、前の車両に乗ってたら、今ここにはいなかっただろうが」
「本当!? 無事でよかったわねー……。ねえ、涼一」
「なんだ?」
「お願いだから、帰りは一緒に車で帰ろ。
荷物で狭いって言うなら、あたしの荷物置いて帰ってもいいから」
「そうよ。お願い、浅田君」
「涼一さん……」
と言われた。以前の俺なら、断っていたかも知れないが。
「ああ、わかった」
「本当?」
「本当だ」
「絶対に?」
「絶対だ……、信用しろ」
「うん、わかった。涼一の言うことなら、信用する」
相良さんに会って、自分の未熟さに気がついた。俺も、過去を受け止めてみよう。
「じゃあ! さっそく海で遊ぼうよ? アンタが来るの、みんな待ってたんだから」
「ああ、すまなかったな。俺のせいで遅れて」
「いいのよ。あっ、荷物中にあるから、入って入って。村上君の別荘、すっごい広くて豪華よ」
「そうみたいだな……」
そして俺は、始めてこの別荘の玄関をくぐった
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