第六十三話 「少年と猫 (前編)」

 あれは俺が中学生の頃だった。

「――おまえさあ、そのツラ気にくわねぇんだよ」

 当時は、よくこんなトラブルに巻き込まれた。まあ、今もそうだが。

「でもよ、ちょっと小遣いくれたら一発殴るだけでゆるしてやるぜ」
「そーそー、大人しくすりゃあ痛い目にあわなくきてもすむしよ」

 ただ廊下を歩いているだけでも、いきなり物陰に引きずり込まれてニ、三人に脅されることがあった。

「………」
「おら、黙ってねーでなんか言えよ! すましたツラしやがって、ぶん殴られてぇか?」

 どうも、俺の態度が気に入らないらしい。
 別に他人に迷惑を掛けている訳でもなく、
 ただ誰ともコミュニケーションを取らないように静かに生活しているだけなのに。

「……黙ってくれ」

 俺はこういう連中に心底辟易していた。

「あぁ? なんだと、誰に口きいてんだよ!?」

 この時期になると、男は体格ができてきて自分の強さをひけらかしたくなる傾向があるようだ。
 この勘違いしている自信はそこから来ていると思う。

――ゴフッ

 俺は向こうの一人の腹部に一撃をくれてやった。

「なっ……?」

 他の人間も驚かせる暇もなく。

――ガッ、ドス

「……頼む、俺に二度と関わらないでくれ」 

 それだけを言い残し、俺はその場から消えた。

(くだらない……)
 
 だが、そんなものはその場しのぎにしかならないようだった。
 奴等は性懲りもなくちょっかいをかけてくる。

「てめぇ! この間はよくも……」

――ドフッ

 最初に大人しく金でも渡してやればよかったか?
 いや違う。奴等は一度甘い顔を見せると制限なく要求してくるに違いない。
 奴等と仲間になれない以上、常に相反する立場にいるしかない。

(……できれば、『第三者』になりたい)

 虐げる側でもなく、虐げられる側でもない、
 ある意味最もタチの悪いとも言える傍観者になりたかった。
 全ての出来事は自分に関係のないことと思い、自分だけのことを考えていたかった。

『死ね』

 そんな言葉が机に書かれていたことがあった。

――ゴシゴシ……

 犯人を追及する気もなく、俺は黙ってその落書きを消す。

(どうして、面と向かって言わないんだ……)

 こんな姑息な手でしか報復できない奴等の行動は、もはや呆れを通り越して哀れみが出てくるようだ。

「いいか! まともな人間になりたければ最低でも高校は出ろ!
 社会不適合者になりたくなければ、一生懸命勉強するんだ!」

 学校の勉強にも興味がなかった。なまじ出来てしまうために、向上させようとする意欲が湧いて来ない。
 こんなこと、他人ならなんて贅沢なことを言っているんだと言われそうだが。

「特に英語は受験には必須科目だ! 今のうちから……」

 きっと、本気で勉強してテストで一番を取れば、
 先生らにでもちやほやされるだろうが、そんな地位に甘んじたくはなかった。
 高学歴へのレールなんて進む気はなかった。
 それにしても、こういう教師は誰もが似たようなことを言うのだろうか?

「――でさー、あそこの攻略に二時間もかかっちまったぜ」
「バッカだなー! 暗号解読に手間取ったんだろ? 俺なら余裕で……」

 当然、クラスの人間とも親しくはならなかった。
 どこぞの気まぐれな女子生徒が俺に声をかけることがあったが、俺はことごとく無視をした。

「だから、なんだっていうんだ……」

 そんなある日のことだった。

――がさがさ……

「……ん?」

 俺は、昼休みなんかはよく校舎裏の庭に来ていた。ここは人影もなく、一人でいるには絶好の場所だった。

「みぃ」

 音のした方向を見ると、茂みから猫の顔が覗いていた。

「なんだ、猫か……」

 気にせず俺は、再び読書に戻ろうとした。

「みぃ、みぃ」

 猫はその場から離れず鳴き続ける。

「みぃ、みぃー」 

 一体なぜその場で鳴いているのだろう。誰かに、何かを訴えているのだろうか?
 誰に? それは当然、その場にいる一人しかいない人間の、俺だろう。

「まったく……」

 しかたなく俺は追い払おうと近づいた。

「おい、どこかに行け」
「みぃ」
「親元にでも帰るんだ」
「みぃー」
「………」
「みぃ……」
「……勝手にしろ」

 俺は元の位置に戻り、読書に没頭することにした。

「みぃー、みぃー……」

 そして俺が教室に戻るまで、その猫は鳴き続けた。

(まあいい、明日には消えているだろう……)

 だが、俺の考え通りにはならなかった。

「みぃ」

 次の日も、猫はそこにいた。まるで、ずっとそこにいたかのように。

「………」

 俺は気にしないことにして、読書を始めた。

「みぃ、みぃー」

 猫がいるぐらいで、この居心地の良い場所から離れる訳にもいかない。
 
「………」

 学校にいる間、安息が求められるのはここだけなのだ……。

「みぃ……」

 別に俺の意思が薄弱で折れた訳じゃなかったのだが。

「一体、どうしたんだよ……」

 近寄って、様子を見てみることにした。

「みぃ」

 今まで気付かなかったが、その猫は思っていたよりずっと小さい、未熟な仔猫だった。

「……腹でも減ったのか?」
「みぃ」

 言葉が通じているとは思えないが、衰弱しかけた様子を見て明らかだった。

「仕方ないな……、ちょっと待ってろ」
「みぃ?」

 俺は校舎に戻り、給食室にあった余り物のパンと牛乳をもらって来た。

「……ほれ」

 パンを食べやすい大きさにちぎり、牛乳を容器に移し替えて仔猫に与えた。

――かつ、かつ……

 よほど腹が減っていたのだろう、一心不乱に貪り食っている。

「………」

 俺はその様子をじっと見下ろしていた。

「?」

 それを気付いたのか、一瞬俺を見上げた。

「みぃー」

 と鳴き、また食事に戻った。

(……まさか、礼でも言ったのか?)

 そんな考えが頭を過ぎった。

――ぺろ、ぺろ……

 そんな俺の気も知らず、ミルクを舐めている。

「おまえは、一人ぼっちなのか……?」

 見渡しても、この猫の親や仲間らしきものは見えない。
 何日もここに一匹だけいるということは、きっと親とでもはぐれてしまったのだろう。
 まだ小さいのだから、餌もろくに捕れなったに違いない。

「みぃ……」

 すると食事の終えた猫が、俺の足元に擦り寄ってきた。

「おい、やめろ……」

 俺の制止の声も聞かず、猫は裾に身体を擦り付けている。

「みぃ、みぃー……」

 足先から、なんとも弱々しい感触が伝わってきた。

「つい餌なんてやってしまったから、懐かれてしまったか? 参ったな……」
「みぃ」

――キーン、コーン……

 と、昼休み終了のチャイムがなった。

「おい、頼むから離れてくれ。俺は教室に戻らなきゃならないんだ」
「みぃ……」

 猫は、渋々のように足元から離れた。

「……どうせ、明日も来るからな」
「みぃー」

 そう言うと、嬉しそうな声を出した。まるで会話をしているようだった。

「……やれやれ」

 その日以来、俺と猫との付き合いが始まった。

「みぃー」

 元気になったせいか、たまに居ない日もあったが、大概は俺を迎えてくれた。

「ほら、いつもの給食の残りだ」

――がつ、がつ……

「……うまいか?」
「みぃー」

 学校の誰よりも話しかけるのが、この仔猫になってしまった。

「しかしな……、このままでいいのかな?」
「みぃ?」

 あまり人に馴れすぎると、いざ野生に帰った時に動物本来の技術がおろそかになってしまうのではないか?
 こんな風なこともいつまでも続くのか分からないし、ただでさえ猫は愛玩動物と呼ばれているのだから、
 獲物を捕る能力は低いだろう。

「誰か、いい飼い主でも見つかればいいのにな」
「みぃー……」
「俺はだめだ。これ以上扶養家族を増やすわけには、行かないんだ……」

 生活が切羽詰っているわけでもないが、室内で活動する猫を置いておけば色々と手間がかかるだろう。
 自宅で仕事をしているおじさんに、これ以上負担をかけたくはない。

「いいわけに、過ぎないか……な」
「みぃー」
「……すまんな」
「みぃ……」

 それでも俺は、一応できるだけのことはやった。

「――ほら、ここが寝床だ」

 校舎裏の近くにあった寂れた物置の裏に、ダンボールにタオルを敷いておき寝床を作ってやった。 

「屋根もかかるから、ここなら雨露はしのげるぞ」
「みぃ、みぃー」

 今思えば、俺はこの状況を楽しんでいたのかもしれない。

「そういえばおまえ、名前がないな」
「みぃ?」
「……『ミー』でいいか? 安直かもしれないが」
「みー」
「気に入ったか?」
「みー、みー」
「そうか、良かったな」

 そして、いつものように俺の膝上に乗って、読書する俺を眺めていた。

「みぃ」

 時たまなでてやると、嬉しそうな声を出した。

――キーン、コーン……

「時間か。じゃあな、ミー」
「みー……」

 だが、こんな生活も長くは続かなかったのも、当然のことかもしれない。