あたしは今、この屋上から自殺するつもりだ。
――ヒュウウゥ……
一陣の風が吹きぬける。
「高い……わね」
フェンス越しに地上を見下ろすと、吸いこまれるような気分になる。
「ふん!そうじゃなきゃ、意味がないわ!」
あたしは靴を脱いで、その上に遺書を添えた。そしてフェンスに上り始める。
――ガシャ…ガシャ…
その一歩一歩が死に近づいている、あたしは心を静めつつ、向かい側の縁に降りた。
「ごくっ……」
その心許ない足場に立ち、思わず息を飲む。
「ここから踏み出せば、この世界から決別できる……」
そっと、つま先を出した時を出す。だが、中々決心が着かない。
「……ちょっと、すまないが」
その時、急に後ろから声を掛けられた。
「だ……だれっ!!」
驚いて振り向く、ちょっと体勢が崩れたのでフェンスに持たれかかってしまう。
「な、何よアナタ!」
見ると、一人の男子生徒が立っていた。
「どうして!?どこから入ってきたの!?」
さっききっちりと、扉に鎖を掛けて鍵を閉めたはずだった。
「……元々、ここにいたんだが」
すると、その男子生徒は呟くようにそう言った。
「えっ?」
その言葉を聞いて、あたしは呆然とした。
「でも、ここって……」
この屋上は、昼間ならともかく放課後はめったに人が来ない。
昨日も一昨日も来たけど、人はいなかった。まして、こんな遅い時刻に。
(うっかりしてた!それでも誰かいるかも知れないのに、良く確認もしないで鍵掛けちゃった……)
後悔をしても、どうしようもない。
この状況を見られたからには、静かにに自殺をさせてはくれないだろう。
「あの……」
その男子生徒が、何かを言おうとする。
「近寄らないで!」
あたしは、その言葉をさえぎった。
「あなた、あたしが自殺するのを止めるつもりなんでしょう?冗談じゃないわ。
あたしは一人で静かに死にたいのよ。
あなたなんかにジャマをする権利はないわ、どっか行ってよ!」
そう早口で言い放つと、向こうはやれやれと言った表情で溜息をついた。
「……別に、邪魔をするつもりはないがな。ただ俺は、この屋上から出たいだけだ
……あそこの扉に鍵を掛けたのは君だろう?
さっさと開けてくれるなり、鍵を渡すなりしててくれないか?」
「そ、それはそうだけど。あなた一年生でしょ?
初対面で、しかも三年生であるあたしに向かってその口の聞き方はないんじゃないの」
「これから死のうとする人間が、そんなくだらないことに気に欠けるとは意外だな」
「なんですって!?」
なんて、生意気な下級生だろう。こんな状況で、そんな言い方をするなんて。
「一人がいいなら、言われなくても出て行くさ。
だか、それにはあの扉を開けなければならないのだからな」
「わかったわよ!勝手にすればいいじゃない、鍵なんて……」
そう言おうとした時、ふと思いついた。
この男は、あたしがこの世で会った最後の人物になるかもしれない。
別に、名残惜しいとかそういうのじゃないけど、もうちょっと話しをしてみようと思った。
別にいつでも死ねるのだから。
「……渡すのはいいけど、もうちょっとあたしと話しを付き合いなさい」
「はあ?」
当然、向こうは意外そうな声を出す。
夕暮れ時が近づいているので、表情は影になって良くわからないけど。
「話しだって?これから自殺しようとする人間が……」
「ストップ!それ以上近づかないで、そして離れてもだめ」
「………」
向こうは、大人しく言うことを聞いてくれた。
「あなた、一年生でしょ。名前は?」
「……浅田、浅田涼一」
「浅田クンね、あたしは『春日部 響子(かすかべ きょうこ)』、さっき言った通り三年よ」
「一体……」
「話しの主導権を握っているのはあたし。
浅田クンは下級生なんだから、上級生の言うことは聞きなさい」
「………」
「嫌なら、このまま落ちるわ。それでもいいの?」
「……わかった」
言うことを聞かせるというのは、なんとも気分が良い。
「さて……浅田クンは、どうしてここにいたの?」
「そんなことどうでもいい……」
「落ちるわよ」
「……ただ、一人で本を読んでいただけだ。そこのベンチでな」
そう言って彼は、片手を向こうのベンチに向ける。
「一人で?こんな時間まで」
「ああ」
「つまらないわね、時間の無駄よ」
「……これから自殺しようとする人間に、言われたくはないな」
「なんですって!?……まあいいわ、良くここには来るの?」
「たまに……そうしょっちゅうは来ないな」
「昨日や一昨日は?」
「いや、来ていないが。それが?」
「別にいいのよ、あなたは聞かなくて」
「………」
フェンス越しのこの会話。
ちょっと普通の状況でないせいか、気分が高揚としていた。
あたしは、何やら楽しんでいたのかもしれない。
「いい加減こんなことは……」
「うるさいわね!アンタは質問される時以外黙ってて、そうじゃなきゃ落ちるわよ!」
「やれやれ……」
落ちると脅しをかけつつ、あたしと浅田クンとの会話は結構続いた。
「部活とかは?」
「別に……入る気はない」
「どうして?青春を謳歌させるのに、部活に入らない手はないわよ?」
「……知るか、放っておいてくれ」
年上という立場から、何かと説教をするような形になる。
「何よ!今なんて言ったの!」
「……ヒステリック、と言ったんだ」
「あたしのどこが、ヒステリックなのよ!」
「誰がどう見たって、そう思うぞ。
感情の起伏が激しすぎる……とはいえ、こんな状況下で平静でいる方が不自然なのかもな」
「そう言うアンタは何よ、さっきから冷静でいて。
目の前で自殺しようとしている人間がいるのよ、なんとも思わないの?」
「……性格なものでな」
「ふふっ……変な人ね、浅田クンって」
なんとなく、彼と会話をしていて共感が持てるような感じがした。
この世の最後の人物がこういう人で、悪くないと思った。
「さて……浅田クンは、あたしに聞きたいことはあるかしら?」
今までの流れを変え、今度質問される側になってみようと思った。
すると、浅田クンは少し考えているようだったが。
「……別に」
ただ、それだけしか言わなかった。
「何よ、本当は聞きたい事があるんでしょ」
あたしは、少しむっとした。
「何も無い」
「ウソよ!本当は聞きたい事があるんでしょ、遠慮しないで言ってみなさい!」
そうだ、この状況で何も聞くことが無い訳がない。
「聞きたいとことと言ったら、いつ開放してくれるかだな。
もう日も暮れてきた、早く帰りたいのだがな」
「……わかったわよ!アンタなんてさっさと消えてしまえば良いのよ!」
そう叫び、あたしはポケットにあった鍵を向こうに放り投げた。
「さあ、渡したわ。さっさとどっかに行って!」
「……言われなくても」
鍵を受け取った彼は、そのまま屋上の薄闇へと消えて行った。
「……あ」
気付くと、もう姿は見えない。
――ガシャ……
後悔の念が襲いかかり、あたしはフェンスに指を絡めた。
「いつもそう……あたしは自分勝手で、いきなり怒り出しては相手を傷つける。
そうやって、向こうはあきれて去って行く……」
そして、今回もまたやってしまった。
「悪いのは、あたしなのに……そうだ、あやまらなきゃ」
今ならまだ、間に合うかもしれない。
「ねえ、待って!」
あたしは、フェンスを急いで上り始めた。
「ちょっと待って!浅田クン……」
――ズルッ!
半分くらい上がった所で、急いでいたせいか足を滑らせてしまった。
「あっ!」
と言った時にはあたしは縁に落ち、そのまま転がって下に落ちそうになった。
「ちょっと、助け……て」
フェンスを支える支柱に掴み、落下はなんとか防いだ。
だが、この体勢ではよじ登ることができず、落ちるのは時間の問題だった。
「だめ……まだ、死にたく……ない……」
自分の体重が支えきれず、序々に指が外れて行く。
「浅田……クン」
もうだめだ、そう思った時だった。
――タタタ……ダンッ!
見上げるフェンスの上を飛び越す、一つの影があった。
「あ……」
――ガシッ
その影はあたしの手を掴んでくれて、落ちるのを助けてくれた。
「……浅田クン!」
その人影は、さっき帰ってしまったと思っていた彼だった。
「死にたいんじゃ、なかったのか?」
彼は、あたしの顔を見つめながらそう言った。
「違う!……あたしは、まだ……」
あたしは、彼の目をはっきりと見て否定した。
「……ふう」
すると彼は溜息をついたと思うと、あたしを力強く引き上げてくれた。
「助かっ……た」
緊張が解けると、どっと疲労が押し寄せてきた。
縁に座りこみ、フェンスに持たれかかる。
「……大丈夫か?」
「ごめん……ちょっと休ませて」
しばらく休み、呼吸を整えた。
「はぁ……ありがとう、もういいわ」
「……なら、そろそろ手を離してくれないか?」
「えっ?」
見ると、あたしの左手は彼の右手をしっかりと掴んでいた。
「ごめん!……あ、でも……」
その手を離すのは、なんだか嫌だと思った。
その手はまるで、この世とのつながりを示す大事な絆みたいなものに思えたからだ。
「……もう少し、このままでいたい」
彼の顔を見ることができず、じっとうつむいた。
「まあいいが……とりあえず、向こう側に移ろう。この場所は危険だ」
「あ、うん」
あたしは、彼に手を引かれるようにフェンスを登り、向こう側に到着した。
その広々とした空間は、なんとも安全で、心が安らいだ。
「ありがとう……もういいわ」
あたしは彼の手から、ゆっくりと指を離した。そして、自分の置いた靴の所に向かう。
「………」
その靴の上に添えられていた遺書を手に取り、無言で見つめる。
――ビリッ、ビリッ!
そして、遺書を引き裂いた。
「あ……」
彼が何かを言う前に、あたしはそれをフェンスの向こうにばらまいた。
「いいの……自殺なんて、もうまっぴら!」
あたしは両手を広げ、ゆっくりと空を仰いだ。そして、確かめるように空気を吸う。
「……勝手な物だな」
「そうよ、あたしは勝手な女。自分のことしか考えない、嫌な女よ……」
靴を履き、彼に近寄る。
「もう一度……あなたの顔を見せて」
あたしは両手で彼の顔を挟み込むようにし、ゆっくりと見つめた。
「あなたって……」
今までは夕暮れ時だったためわかりづらかったが、
こうして近づいて良く見ると、驚くほど整った顔立ちだった。
その切れ長の目の奥の瞳に、吸いこまれそうになる。
「……もう、いいか?」
「うん……」
惜しむように両手を離し、視線を外す。
「じゃあ、俺は・……」
そう言って彼は、後ろ向いた。出口に向かって歩き出そうとする。
「待って!」
あたしは駆け出し、彼の背中に抱きついた。
「お願い!もう少し……もう少し、一緒にいて……・」
広い彼の背中に、顔をうずめる。もしかしたら、泣いていたのかもしれない。
「……仕方ないな」
彼は、あたしのワガママを聞いてくれた。
「じゃあ……そこのベンチで」
そうしてあたし達は、ベンチに二人並んで座った。すでに夕暮れは過ぎていて、もう夜に近かった。
「………」
特に会話はなかったが、この時間がたまらなくいとおしかった。
「あの時……戻ってきてくれて、ありがとう」
ただ、それだけを言った。
「……別に、声が聞こえたからな」
「あたしの声、届いていたんだ……良かった」
そしてしばらく経った後、あたし達は屋上を出た。扉に掛けていた鎖と鍵は、その辺に捨てた。
「……じゃあ」
電気の消えた、真っ暗な校舎の廊下で、あたし達は別れた。
「………」
その向こうに去って行く彼の後姿を、あたしはじっと見つめていた。
だが彼は、立ち止まって振り返るようなことはしなかった。
「またね……」
あたしは、すでに去って彼のいない廊下に声を掛けた。
(今度もし、学校で出会ったら……笑って挨拶をしよう!)
そう、心に決めた。
―――現在
「……まあ、こういう訳だな」
俺はあの時の出来事を、かいつまんで説明してやった。
「毎度ながら涼一君は、凄まじい遍歴を持っているね〜」
「……遍歴とはなんだ」
「その人は当時三年生だったんだよね?ということは、とっくに卒業してる訳だ」
「多分な」
「それ以来、会ったりしたのかい」
「いや……一年の頃、ごくたまに廊下で見かけたくらいだ。第一、この学校は広いからな」
「たしかにね〜、ということは特に進展は無い……あれ、加奈?」
するとその時、瑞樹の妹が突然駆け出した。
――ガシャ…ガシャ…
何を思ったか、フェンスに登り始める。
「お、おい!何してんだ!危ないよ!」
そう言って瑞樹が、慌てて急いで止めに入る。
「離してお兄ちゃん!こうすれば、浅田先輩が助けてくれるのに〜!」
「何バカなこと言ってんだよ!危ないから早く下りろって!」
「いやぁーっ!」
フェンスにしがみ付く妹を、瑞樹は必至に引き剥がそうとしている。
「はっ、やれやれ……」
その様子を見て村上が、あきれたように両手をすくめた。
「……まったくだな」
俺も同意し、視線を下に向けた。
「残念……先に、やろうと思ったのに……」
小さく、そう呟いたのは、この中にいる三人の誰だったのだろう。
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