授業が終わり。急いで涼一の教室に向かうと、すでに誰かと帰ったらしい。
「まったく、もう……」
両手を怪我して、不自由しているはずなのに勝手に帰るなんて。
「こんな時くらい……世話やかさせてよ」
あたしは、そのまま急いで涼一の跡を追った。きっと、真っ直ぐ家に向かっているだろう。
「誰かと……って、誰かな?」
美紀?由紀子?加奈ちゃん?
……村上君と、瑞樹君の二人は一緒に帰ると何かトラブルが起きそうだから、
今は一緒にいてほしくはないけど。
―――昨晩
「……わざわざ、俺の部屋まで来なくてもいいのに」
「うん……でも」
食事が終わっても、あたしは涼一に付きっきりだった。
涼一はベッドに腰掛け、あたしは床で叱られた子供のように座っていた。
「ねえ、怒ってる……よね?」
涼一は、いつもと変わらない表情をしているが、気分が良いはずがない。
「……別に、俺が勝手にやったことだからな」
そして、いつものように素っ気無く答える。
「嘘……だよ、そんな……」
「……どう思われようと勝手だがな、いつまでも一緒にいられると、気が落ち着かないんだが」
「ごめん……」
そして、しばらく会話が途切れる。
「………」
すると、突然涼一が立ち上がった。
「どうしたの?」
「寝る……着替えるから、出て行ってくれ」
「でも、その手じゃ……」
「いいから……早く」
―――バタン
そう言われて、あたしは部屋を追い出されてしまった。
「ねえ……大変だったら、遠慮しないで呼んで」
ドア越しに、そう話し掛ける。
「……ああ」
返事が聞こえたのは、唯一の救いだった。
「……そうよ、誰かがいつも一緒にいないと」
道路を走りながら、夕べのことを思い出す。
いくら涼一だって、今は人の手を借りなければ生活が大変なはず。
怪我した原因があたしなのだから、あたしが一緒にいなきゃいけないんだ。
「あっ!」
すると、前方に見覚えがある後ろ姿が見えた。
「一人……ね、一緒の人はどうしたのかしら?」
学校を出て、そんなには経っていない。
「まあ、いいか……涼一ー!」
声であたしだとわかったのだろう、振りかえってその場に留まっていてくれた。
「ふう……なんで、勝手に帰っちゃったりしたの?」
隣りまで近づき、そう質問する。
「……おまえこそ、部活はどうしたんだ?」
「え?ああ……今日はお休み」
(嘘……だけど)
「嘘だろう……部活くらい、ちゃんと出ろ」
ばれていた。
「い、いいじゃない。あたしの勝手よ」
開き直って、そう答える。
「なら……さっさと帰るのも、俺の勝手だろう」
そう言って、涼一は歩き出した。
「ま、待ってよ」
慌ててあたしも後を追う。そうやって、二人で並んで歩いた。
「あのさ、誰かと一緒に帰ったんじゃなかったの?」
「ああ……同じクラスの、和泉って奴だ」
「和泉?友達なの?」
「……そういう訳じゃないが、何か話しがあったみたいだ」
「ちょっと……また、何かやっかい事なの?」
「なぜそう決め付ける……別にあいつは、悪い奴じゃないと思うがな」
「へえ……」
涼一が他人をそんな風に言うなんて、珍しいと思った。
「……もしかして、すでに今日何かあったんじゃないの?」
そのせいで、思わずそんなことを言ってしまう。
「別に……いつも通りさ」
「……嘘ね、何があったか言ってごらんなさい」
「まったく……」
「ほら」
「なんでもないさ、ただ……」
そうして涼一は、体育の時間に起きたことを話してくれた。
「あきれた……怪我してるのに、ケンカなんてやったの!」
「……向こうから吹っかけられたんだ。第一、怪我しているくらいでどうってことない」
「そうかも、知れないけど……」
確かに、涼一ならなんとかなるだろう。
「でも、万が一ってこともあるし……」
「判ってるさ、今度から気を付けるよ」
「絶対よ!」
「ああ……」
(人の心配も知らないで、この男は・……)
「……それで和泉君って人が、涼一を助けようとした訳?」
「まあな……結果的に、俺が助けた事になるかも知れないがな」
「そうね……でも、ちゃんとお礼は言ったの?」
「一応な」
「本当に?」
「……しつこいぞ」
涼一にも、そんなことをしてくれるクラスメートがいると思うと、なんだかほっとした。
そんなこんなしているうちに、家に到着した。
――ガラガラ……
「ただいまー!」
すると、店内にいたお父さんが手を止めてこちらを見た。
「おかえり、涼一君も一緒か。学校はどうだった?その手じゃ何かと大変だっただろう」
「いえ……大した事ないですよ」
(・……そんな訳ないくせに、強がっちゃって)
涼一の子供みたいな態度に、思わず笑ってしまいそうになる。
「まあ、とりあえず着替えてきなさい。そうだ……涼一君は着替えるのも不便だろう。
恵美、手伝ってあげなさい」
「・……えっ?」
「えっ、じゃない。涼一君がこうなったのもおまえのせいだろう?責任持って、面倒見てあげなさい」
「あ……はーい!」
「いや、別に俺は一人で……」
「と言う訳だから。涼一、早く部屋に行こう!」
「おい……」
お父さんに言われたんだからしょうがない。涼一がなんて言おうと、
あたしが面倒見なきゃいけないんだ。そう思って、あたしは涼一の背中を押して行った。
「さてと……まずは、ワイシャツね。ほら、こっち向きなさい!」
なんか、お母さんになった気分だ。こういうのも新鮮で良いかもしれない。
「はぁ……」
観念したのか、涼一がこちらを向く。
「よしよし、良い子ね。さあ、こっちにいらっしゃい」
「何、言ってんだ……オマエ」
そうしてあたしは、襟から一つずつボタンをはずしていった。
手首のボタンもはずしてあげ、ズボンから裾を出して、ワイシャツを脱がせた。
「……おい、ズボンも脱がす気か?」
「当たり前じゃないの。その手で、ベルトとホックが外せるの?」
「できるさ……だから、もういい」
「だーめ。お父さんに言われたんだから。面倒見なさいって」
そう言って、あたしはベルトに手を掛けた。
――カチャカチャ……
「……もういい、そこのジーパン取ってくれ」
ホックを外したところで、涼一はそう言った。
「あ……うん」
あたしは学生ズボンから手を外し、部屋の隅にあったジーパンを取ってあげた。
(うわあ……なんだろう?変な雰囲気……)
「……はい」
そう思いつつ、涼一にジーパンを渡す。
「ああ……」
そうして、涼一は学生ズボンからジーパンへと履き替える。
「あ、ほら……」
すぐさま、あたしはその作業を手伝った。脱いだ学生ズボンはキチンとたたんでおく。
「……これで終わり?」
そして涼一は、ジーパンとティーシャツ姿になっていた。
「ああ……だから、もういい。出て行ってくれ……」
そう言って、涼一は疲れたようにベッドに腰掛ける。
「うん、わかった。このワイシャツは洗濯カゴに入れとくね」
あたしは脱いだ涼一のワイシャツを持ち、部屋を出て行った。
それをカゴに入れて、自分の部屋に戻り、急いで着替えてから涼一の部屋に向かった。
――トントン……ガチャ
「入るわよ」
見ると、涼一はベッドに腰掛け、さっきと同じ姿勢だった。
「なんだ……まだ用か?」
部屋に入ってくるあたしを見るなりそう言う。
「その手じゃ、何もできなくてヒマでしょ?だから、あたしが相手してあげる」
「………」
「せっかくだから、ご本でも読んであげようか?」
「……言ったな」
すると、涼一は本棚のある一角を指した。
「そこの棚の、上から二列目の、左から五番目の本を取ってくれ」
なんとも素直なことに、涼一は本を指定してきた。
「ええ、いいわ」
嬉しくなって、あたしは本棚に近寄る。
「えっ……と」
その指定された場所を探し、目当ての本の背表紙を見ると。
『脳と心の論理』
と書かれてあった。
「……これ?」
その本を指差し、涼一に尋ねる。
「ああ、そうだ」
それを見て、うなずいている。どうやら間違いないみたい。
「何これ……」
あたしはその本を棚から出し、それを持って涼一の隣りに座った。
「で、どうしたらいいの?」
「……どこからでもいい、好きなページから読んでくれ」
「うん、じゃあ……」
パラパラとページをめくると、脳の断面図のイラストがあり、後はずっと字ばっかりだった。
しょうがないので、適当な所に目を付けて、そこを読んでみる。
「えっと……脳の中で、どういう物質とどういう物質がイントラクト、
つまり相互作用して、どういう現象が誘導される、こういうことが微細に解るようになり……」
意味のわからない文章は、まだ続いている。
「DNAレベル、細胞レベル、細胞の小集団のヒエラルスキー総体が解明されてきたら、
人間の思考かエモーションも、説明可能な領域に近づくと考えるべきと言える……」
意味のわからない文章は、まだまだ続いている。
「……だからといって、人間の思考や精神現象なんかを全部含めて、
生態現象は全て物質レベルで説明をつけられるという訳ではない。
そこがウロボロスであり……あー!もう、カンベンしてよ!」
ここまで来て耐えられなくなり、あたしはギブアップした。
「やはりな……」
涼一は、なんとなく愉快そうだった。
「……あーっ!あたしを、からかったわね!」
そう言って、涼一に食いかかる。
「本を読んであげると言ったのは恵美だろう?それとも、絵本でも読もうと思ったのか?」
「うー……」
言い返すことができず、ただうなるしかできなかった。
「まあ、退屈しのぎにはなったがな」
「ほんと?」
「ああ……必至で文字を読み進める、おまえの姿がな」
「もう!」
(だけど……ちょっとは、役に立ったみたい)
その涼一の様子を見て、あたしはそう思った。少なくても今は、邪魔者扱いされていないみたいだから。
「……お願いだから、他のにして」
「いや、もう本はいいんだ……そいつもしまってくれ」
「でも……」
「いいんだ……俺のために、そこまでする必要はない。あと、それに……部活もちゃんと出るんだ」
「うん……わかった」
そう言って、あたしは本を棚にしまい、部屋から出ようとした。
「……夕食の時間になったら、呼ぶね」
扉で振り向き、涼一にそう伝える。
「ああ……わかった」
涼一は、ベッドに横になりながらそう返事した。
「じゃ……」
そうして、扉を閉めようとした。
「……夕食」
すると涼一が、ぼそりと呟いた。
「えっ?」
手を止め、思わず聞き返す。
「夕食のおかず……なんだ?」
今度は、ハッキリとそう言った。
「あ……ちょっと待って!聞いてくる!」
それを聞いてあたしは、急いでお父さんの元に向かった。
|