第四十話 「夕食の惨事」

「涼一、おっかえり〜!」

 あの事があって家に帰ると、エプロン姿の恵美が出迎えた。 

「……まだ起きてたのか?」

 時刻は、もう十一時近くなる。

「あのねえ、子供じゃないんだから……
 アンタがつらいバイト生活を終えたということで、お祝いに食事の用意して待ってたのよ。
 御飯、まだでしょ?」
「そうだが……食事って、お前がか?」

 思わず、不安げな気分になる。

「何よ、あたしが食事を作るのがそんなに不安?」

 ……こいつは、そういうことにすぐ気付く。

「ほらほら、さっさとテーブルに着いて。今用意するから」
「・……ああ」

 とりあえず、言われるままにテーブルに着いた。

「そういえば、おじさんは?」

 見ると、食事の席なのに姿が見えない。というより、家にいる気配がない。

「……ああ、言ってなかったっけ?組合の用事で今夜は泊まりだってー」

 台所から恵美の返事が返ってくる。

「そうか……」

 納得しつつ、テーブルを見る。そこには、数種類の品が並んでいる。
 まあ、これらはおじさんが前に作り置きしていたものを適当に並べたに過ぎないのだが。
 そういえばさっきから台所で、一体何を用意しているのだろうか?

「……一体、何を食べさせるつもりなんだ?」

 恵美に問い掛けてみる。

「天ぷらよー!」

 と、返って来た。

(天ぷらだって……?)

「作りたてがいいと思って、涼一が帰ってくるまで待ってたの。今、揚げるから待っててー!」 

 その言葉を聞いて不安を抱き、俺は立ちあがって台所に向かった。

「……おい、大丈夫か?」

 入り口で、そう声を掛ける。見ると、恵美は熱せられた鍋の前で構えていた。

「何が大丈夫だって?こんな、油で揚げるくらい簡単よ!」

 そう言って、鍋に具を放りこんだ。そうして、油が弾ける音が響く。
 しかし、なんとなく手つきが危なっかしい。

「……手伝おうか?」
「いいって、いいって!涼一は部屋でテレビでも見て、待ってなさい」

 どんどん具を放っていく。その度に油の弾く音が響く。

――パシッ!

「きゃっ!」

 そうして、飛んだ油に驚いている。

「おい……」
「だいじょーぶ!ちょっと温度が高すぎるかな・……」

 そう言って、コンロの火を調節している。

(たねの水分が、多すぎるんじゃないか?それとも油が……)

「あ、油出しっぱしだった。しまわないと」

 恵美が、使った残りの油缶を取ろうとして、コンロの横に手を伸ばした時だった。

――グラッ……

 天ぷらを揚げている鍋に腕をぶつけ、熱せられた油がこぼれそうになった。

「……あっ!?」

 それを見て、恵美が驚きの声を上げる瞬間、俺は駆け出していた。 

――ガシッ!

 両手で鍋をつかみ、油が振りかかるのを防いだ。

「ぐっ……!」

 だが、直接触れている両手はどうしようもない。
 熱せられた鉄と油が皮膚を焦がし、刺すような痛みが走る。

「きゃあーっ!涼一!」

 俺はコンロの火を消し、慎重に鍋を元の位置に戻した。

「大丈夫だ……」

 すぐに流し台の水道の蛇口を捻り、流れ出る水で両手を冷やした。

「ごめんなさい!ごめんなさい!あたし…あたし……」

 両手をすすいでいる最中、後ろで恵美が必至で謝っている。

「何、そんなにひどい火傷じゃない。それより、洗面器を用意していてくれ」
「う……うん」

 居間に戻り、恵美が用意した洗面器に水を浸して、俺はその中に両手を入れて冷やしていた。

「………」

 その様子を恵美は、申し訳なさそうにじっと見詰めていた。

「……痛みがあるから、重度の症状じゃない。
 すぐに水で洗い流したから、熱が皮膚の下まで届かずに済んだと思う。
 数時間後には、水疱が出るかもしれないがな」

 一応、この状況について説明をする。

「傷跡……残るの?」

 恵美は、おそるおそると言った様子で聞いてきた。

「……化膿さえしなければ、大丈夫だろう」

 水の中の、赤く腫れた両手を見る。完治するには、しばらくの日数がかかるだろう。

(また、厄介な事になったな……)

 そんな考えが、頭に浮かぶ。

「……しばらく冷やしたら、軟膏でも塗ってガーゼで包むさ。
 今夜は安静にして、明日朝一番で医者に見せる」
「うん……ごめんなさい」

 恵美も、もう何度謝っていることだろう。もう食事の用意なんか忘れて、俺に付きっきりだ。

「あのね・……あたし、涼一がバイトで疲れて帰って来ると思って……」
「……わかってるさ、何も言うな」

 いつまでも、恵美の悲しんだ表情は見ていたくない。

「そろそろ、余熱で天ぷらが揚がったろう。さっさと食事にしよう」
「え?でも……」
「両手の使えない俺に支度させる気か?早くしろ……今度は気を付けてな」
「うん……わかった!」

 そう言って、恵美は台所へと消えて行った。まあ、心配はないだろう。

「さてと……」

 俺は洗面器から両手を出し、乾いたタオルで水分を拭き取った。
 用意してあった救急箱からガーゼを取り出し、軟膏を手に軽く塗った。

「あっ!あたし手伝うよ……」

 戻って来た恵美が、ガーゼを巻く作業を手伝った。紙テープで固定し、とりあえず一段落する。

「さて、食うか……と言っても、この手じゃな」
「じゃあ、あたしが食べさせてあげる!」
 
 そう言って、箸でつまんだ天ぷらを俺の口元に持ってくる。

「いや、しかし……」
「……だめよ、これはあたしの責任なんだから」

 静かな口調だったが、強い決意が感じられた。

「ほら、あーん」
「………」

 仕方なく、俺は天ぷらを口に入れた。

「……おいしい?」
「ちょっと足りない……かな」
「……ごめん」
 
 いつも料理に文句をつけると怒る恵美だが、この時ばかりは素直に謝った。 

「……漬物」
「あ、うん」

 そうやって、遅い夕食は終わった。