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第八話『出会い系サイコ』
20070124
その音を表現するのに分かりやすい方法がある。
トタン板を敷いて、一mくらいの高さから漬物石を落とすのだ。
想像出来ただろうか?
それが、人の落ちた音だ。
***
春は出会いの季節らしい。
曲がり角で女の子とぶつかったり、道端で女の子を拾ったり、天から女の子が降って来たりと、どこかの世界ではその様な事が起きているのであろう。
僕がやや遅刻をして朝の九時に学校へ登校した時も、そんな淡い期待を抱かないでもなかった。
そしてそれは、ある意味実現した。
「えっ――」
目の前で起きた出来事に脳が付いて行けず、一瞬言葉に詰まってしまった。
人気の少ない学校の裏門から入って校舎の側面沿いに歩いていた僕の目の前に、突然女子生徒が空から振って来たのである。
右脚があり得ない方向に曲がり、内臓が破裂したのか口から大量の血を吐いていた。
「――ねえ、きみ!」
すぐに僕は慌てて女子生徒に駆け寄った。「しっかりして! 今、助けを呼ぶから!」
「………」
僕の言葉が聞えているのかいないのか、女子生徒は口をぱくぱくさせて何かを訴えようとしていた。
「何? 何か言いたいの?」
僕はその口元に耳を近づける。
「たすけ…………」
震える左手の指先を屋上の方へと差しながら、女子生徒はそのまま息絶えた。
***
「おまえさあ。学校にまで事件を持ち込む事はねえだろうが」
通報を受けて現場に駆け付けた女番(めつがい)刑事が、一連の出来事を説明した僕を見て呆れたように呟いた。
「僕が起こした訳じゃ無いですよ。単に巻き込まれただけです」
「わあってるよ。それで、彼女の事は知ってんのか?」
「いいえ。初めて見る顔でした」
女子生徒の名前は逢瀬再子。二年F組。僕が所属する二年A組からは遠く離れているので、知らなくても無理は無いだろう。
「まだ生徒は残ってるけどよ、すぐに休校になるだろうな。そうなったら関係者以外は帰すつもりだ」
関係者とは、おそらくクラスメイトや教師達の事を指すのだろう。
「遺体の指先……」
「あん?」
「右手の親指を除く指先が赤く変色していました。まるで何かを、強い力で掴んでいたかのように」
その事を示すように指の形の鉤状に曲がったまま硬直していた。死の直前に何かをしていた証拠である。
「それに、左手で屋上を指差していたのが気になります」
何かあるのかと思ったが、現場を離れる前に人が集まってしまったのである。状況説明したりするので忙しくて、結局ずっとこの場に留まらざるを得なかったのだ。
「なら、屋上に行ってみるか?」
「いいんですか?」
「目田の助手だって事は皆知ってるし、何より第一発見者だからな。構わねえだろ」
「はい。ありがとうございます」
僕達二人は玄関から回って校舎の中へと入った。まだ教室には生徒の姿が残っていて、何があったのかと興味深げに外を眺めていた。
「おまえ、遅刻したんだってな。普通に登校してりゃあ事件に遭遇せずに済んだのによ」
「どうせならサボれば良かったですよ。今日は体育があったんだし」
「何だ? スポーツは苦手か?」
「そうじゃないですよ。担当の体育教師が苦手なだけです」
他愛も無い会話をしながら校舎四階分の階段を上がる。
「そういや、目田の奴はどうした? 連絡はしたんだろう?」
「ええ。ですが、何度呼び出しても携帯が繋がらないんですよ。一応メールは送っておきましたが」
「まあ、あいつが出て来る必要の無い事件だと願いたいね」
そして僕達は屋上に出た。
女番刑事は捜査員に挨拶をしながら、真っ直ぐにフェンスに向かって歩き出す。
「おまえの妙な証言が無けりゃ、すぐに決まりだったんだろうな」
その言葉の意味はすぐに分かった。
高さ一m半程のフェンスの向こうの縁に、女子生徒用の上履きがきちんと揃えて置かれてあった。
「そしてこいつが傍に置いてあった」
女番刑事は捜査員から受け取った手紙らしき物を僕に手渡す。指紋を付けないように慎重扱って中身を読んだ。
『――何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返しても会えない会えない会えない会えない会えない会えない会えない会えない会えないわたしの運命の人運命の人運命の人運命の人運命の人運命の人運命の人運命の人運命の人はどこに居るの居るの居るの居るの居るの居るの居るの居るの居るのだからわたしは会いに行く会いに行く会いに行く会いに行く会いに行く会いに行く会いに行く会いに行く会いに行く次こそは必ず必ず必ず必ず必ず必ず必ず必ず必ず……』
「遺書ですか……」
最後に日付と名前も書かれてあるので、そのように考えても構わないだろう。
文字は曲線の少ない角ばった筆跡が特徴的だった。だがそんなものは気にならないくらい、繰り返される奇妙な文法が目に付いた。
「電波系ってやつか? なんだか薄ら寒いものを感じるけどよ」
「さあ……」
屋上の縁は幅が五十㎝程で、人が立つのもやっとであろう。フェンスは網目状で下の方に高さ十㎝の隙間がある。そこから手を伸ばせば、無理に乗り越えなくても手紙と靴は回収出来そうだ。
「屋上に何か不審な点はあったんですか?」
「今のところは何も。ベニヤ板、段ボールの箱、古ぼけたタオル、ジュースの空き缶などが捨てられていただけだな」
「……そうですか」
争ったような形跡も無ければ、扉に鍵が掛けられていた訳でもない。
「なあ、そんなに疑問に思う事か? 最後に言い掛けた言葉は『助けて』だったんだろうし、屋上を指差したっていうのも、ただ何かにすがり付こうとして手を伸ばしただけだったかもしれないじゃねえか」
女番刑事が諭すように言った。
「……かもしれません。でも、何か違うような気がするんです」
「死人には無関心なおまえが珍しいな」
「死人ではなく謎に興味があるんです」
そこのところを勘違いしてもらっては困る。
「とりあえず関係者から話が聞きたいですね。自殺をするような子だったのか知っておく必要があると思います」
「言われなくてもやっているさ。準備が出来たら教えてやるよ」
「お願いします」
僕はそこで、もう一度目田探偵に電話を掛ける事にした。
『――安地君かい?』
もしかしたら、と思っていたら今度はちゃんと通じた。
「目田さん!? ちょっと何しているんですか? 僕は今事件に巻き込まれて大変なんですよ!」
『それって学校で?』
「ええ。僕の目の前に女子生徒が降って来ました」
『うーん。残念だけど、こっちは忙しくて手が放せないんだ。警察は呼んだかい?』
「はい。女番さんが来てくれました」
『だったら大丈夫だろう。彼女と二人で何とかしたまえ。多少の無茶は私が許す』
「えっ? 僕がですか?」
『きみなら出来るよ。自信を持ちたまえ』
「あっ、目田さん――」
そうして通話が切られる。その言葉通り、何やら忙しそうな雰囲気だった。
「……という訳です」
「そうか。許可を貰ったんなら、たっぷり働いてもらうからな。行くぞ」
「はい」
とりあえず僕達は屋上を後にして、校舎へと中に戻った。
***
「――サイコさんの事? 知らないわよあんな奴。休み時間だろうが授業中だろうがいきなり独り言を喋り出すし、机やノートだって意味不明な文字でびっしりなのよ? もう気味が悪くては仕方なかったわ」
クラスメイトから証言を聞くと、彼女はかなり異端扱いされていた事が分かった。
「――運命の人ってやつに会いたい会いたいって口癖のように言ってたよ。クラスの男は当然、学校内でもあちこちで声を掛けてたみたいだったな。そんなんだから『出会い系サイコ』って呼ばれていたよ。ありゃ生きた学校の怪談だな」
死んだ事に悲しむどころか、清々した様子の生徒も少なくなかった。どうやら彼らの中では自殺だと断定されているらしい。
「――屋上にしょっちゅう出掛けていたみたいよ。聞いた話じゃ、隅っこの方で何やらごそごそと怪しげな儀式みたいな事をしてたって。だから気味が悪くて他の生徒も立ち寄らないのよ」
触らぬ神に祟りなしというやつか、そのサイコさんは生徒達からは避けられていたらしい。これでは特定の親しい人物というのは居なさそうであった。
「――うちの担任なんていつも頭悩ませていましたよ。問題児を抱えていては色々と面倒だろうし。そのとばっちり受けるこっちはいい迷惑でした。自殺しそうな雰囲気だったかですって? まあ、そうですね。否定はしませんよ。日頃からあんなの見てちゃね」
それらの態度に女番刑事は辟易した様子である。
「ったく。どうやらかなりの有名人だったみたいじゃねえか? おまえ、本当に知らなかったのか?」
空き教室にクラスメイト達を一通り呼び出して話を聞くと、女番刑事は疑わしげに僕に問い掛けた。
「学校にはあまり興味ないんですよ。色々とあって休みがちですし、それに――」
「それに、何だ? まさかおまえもイジメられたりしてんのか?」
「イジメ……と言うべきか、そのサイコさんと同じようなものですよ」
「シカトか。何をやらかしたんだ?」
「僕の噂を聞き付けた誰かが、机の中にプレゼントを贈ってくれたんですよ」
「プレゼント?」
「い――動物の屍骸です」
「今、別の名前を言い掛けなかったか?」
「詳しく説明しますか?」
「いや、いい。それをどうしたんだよ? まさか無反応のままゴミ箱に捨てたんじゃないだろうな?」
「僕にだって人並みの分別はありますよ。ちゃんと外の焼却炉で処分しました」
日本では火葬。これは常識だ。
「……確かに、同じようなものかも知れねえな」
何とも言えない微妙な表情で女番刑事は呟く。
「でも、僕は自殺なんてしませんよ。命は大事にしなくちゃいけませんから。人は生きられるだけ生きるべきです」
「矛盾してるんだかしていないんだか訳分かんねえよ。とにかく次を呼ぶぞ。あと残ったのはクラスの担任だな」
そう言われて僕はクラス名簿のコピーに目をやる。
「……ちょっと待ってください!」
「あ?」
「これ……うっかりしてました。ここの担任は田所先生です」
「それがどうした?」
「田所助三郎……略して『タスケ』って渾名なんですよ。僕の苦手な体育教師ですから良く知っているんです」
「『タスケ』……だと? それって――」
「ええ。サイコさんが最後に言い残した言葉と一致します」
そこで『タスケ』が教室に入って来た。
「失礼します」
三十過ぎの独身。体育教師らしくマッチョな身体付きで、教育と称して生徒に厳しく当たるタイプだ。
「安地? どうしておまえがここにいる?」
「第一発見者ですから」
僕はしれっと答える。ここでわざわざ説明してやる必要は無い。
「いや、しかし――」
「そこにお掛け下さい。色々と話を聞かせてもらいます」
女番刑事に促されて田所は渋々といった様子で椅子に座り込む。
「被害者の女子生徒は、そちらの生徒の一人でしたね」
質問は女番刑事の役目だ。僕は基本的に言葉を挟まずに、少し離れた位置から相手の様子をじっと伺うのが役目だった。
「ええ。今回の出来事は本当に残念だ。まさかあの子が自殺なんて……」
「何か心当たりは?」
「それが……お恥ずかしながら、私にはちっとも」
「今日の朝の九時は、どこへ居ましたか?」
「……それはどういう意味です?」
「質問に答えてください。今朝九時、あなたはどこで何をしていましたか?」
「どこって……職員室ですよ。二時間目の体育の準備をしていたんだ」
その言葉に僕は納得する。ちょうどそれは僕が出席するはずの授業だったから。
「その事は証明出来ますか?」
「ああ。職員室の先生方に聞いてもらえれば分かる。その時間帯ならホームルームが終わってからずっとそこに居た」
「ホームルームに逢瀬さんは出席していましたか?」
「いいや。欠席だった。別段珍しい事じゃないから、特に気にしていなかったが」
「今日、屋上には行かれましたか?」
「行ってませんよ。行く必要も無い」
その後も幾つか形式的な質問したが、これと言って怪しい点は無かった。
「安地。何か質問はあるか?」
最後に女番刑事が僕に話を振った。
「そうですね……」
僕は少し考えると田所に問い掛けた。
「彼女がクラスで孤立していた事は話を聞いていて想像出来ます。先生はそれをどうにかしようとは思わなかったんですか?」
「思ったさ。幾つか行動もした。でも、あいつは俺の言う事なんてちっとも聞きやしなかったんだ。更に自殺なんて、俺はこれからどうしたら――」
「死んで清々したんじゃないですか?」
「何を言っている!?」
「彼女は厄介者扱いだったんでしょ? この僕と同じように」
「……っ!」
「僕は覚えていますよ。以前授業中にグラウンドの掃除命じたあなたはこう言いました。『早くやれ、死体係』ってね。お陰でその呼び名が定着しましたよ」
「あれは……その……」
「少なくても、彼女が会いたがっていたのはあなたではないですね。もう結構です。戻ってください」
田所はうろたえたように席を立つと、そのままそそくさと部屋から出て行った。
「違いますね、あれは。見掛けと違って小心者のようだ。殺す度胸はおろか、自殺者を出した不名誉に対して怯えている始末だ。生徒の事なんて二の次ですよ」
「……一応、アリバイは洗っておくぞ」
「お願いします」
結果、田所はシロだと判明した。
他にも『たすけ』という名前の人間が居ないかと調べたが、該当者はゼロだった。
「名前じゃないのか……」
僕は落胆して溜息を漏らした。
クラスの人間も、全員授業中だったのでアリバイは確立されている。
「可能性を絞り込めたと考えろ。普通はそうやって一つ一つ検証して、ようやく真実に辿り着くんだ」
「目田さんは違いますけどね」
「あいつは例外だっての。ほれ、気を取り直して次に行くぞ」
女番さんは元気付けるように僕の肩を叩いて言った。
***
僕は再び現場となった外に居た。
遺体は既に運び込まれていて、今頃は警察病院に搬入されているはずだ。
『たすけ…………』
本当に、あの時の言葉は助けを求めただけだったのだろうか?
僕にはどうにも納得出来ない。
「一体、何を言いたかったんだ……?」
僕は頭上を見上げて呟いた。
ここは校舎の側面で壁には人が出入り出来るような窓は一つも無かった。あるのは精々、パイプと換気口だけである。
「こらっ」
突然後ろから頭を叩かれた。
「事件現場でメシ食ってんじゃねえ」
「仕方ないでしょう。腹減ったんですから」
そう言って僕は菓子パンを齧る。登校前にコンビニで買って来たもので、鞄と共に現場に置きっ放しだったのだ。
「むぐ……それで、検死の結果は?」
「死因となったのはやはり落下の衝撃による全身強打だった。拘束された痕や、薬などを服用された形跡は無い。ただ……」
「何です?」
「右肩が脱臼し掛かっていた。おまえが言っていた右手の指の痕から考えると、何かとてつもなく重い物を持ったのかもしれねえな」
「もしくは、屋上の縁にぶら下がったか」
自殺しようとして思い止まったが、バランスを崩して落ちてしまった。その際咄嗟に縁を掴んだが力尽きて落ちた。
あり得ない話では無い。
でもそうなると、どうして最後に屋上を指差したのかが分からない。
「あと、制服には動物の毛のようなものが付着していた。何の動物かはまだ特定出来ていないが、古いものじゃなかったらしい」
「動物……ですか」
まさか、僕みたいに動物の屍骸を机の中に入れられた訳では無いだろう。あれから教室のロッカーや机を調べたが、意味不明の文字が書かれていた以外は不審な点は無かった。
「家族の人とかはどうしたんですか? もうとっくに知らせているはずでしょう?」
「病院に来てもらったがひどいもんだったよ。両親は遺体の顔を見る前から喧嘩を始めていて、おまえが悪い、いいやあなたこそ悪いって、互いに責任を擦り付けていた。あれは随分前から夫婦仲が悪かったようだな」
「離婚寸前ってやつですか」
「子供が居なければとっくにそうなっていただろうな。おそらくあれは、どっちが引き取るかで揉めていたんだ」
「どっちに押し付けるか、でしょう?」
そのような環境に身を置いていたのなら、運命の人とやらに会う事を願う気持ちも分かる気がする。ここではないどこかに、自分を連れ去ってくれるような人物に会う事を。
「それと、あの遺書の筆跡も本人のものだと確認された。これでますます自殺の線が濃厚になってきたな」
「………」
僕は何も言わずに屋上を眺めた。
あれから何度も見上げたが、ここからでは特に変わったところは見付けられなかった。おかげで今は首が痛い。
「なあ。あいつの助手だからって、無理に気負わなくていいんだぞ? おまえは一応普通の高校生なんだからさ」
「今も平気でメシを食っているのが普通と言えますか?」
「気を遣ってやってるのに揚げ足を取るんじゃねえ」
また叩かれた。
「その体質を今更とやかく言うつもりはねえけどさ。せめて学校生活くらいは楽しんだらどうだ? あんな姑息なやり方で教師に仕返ししたりしないでよ」
「そうしていれば、サイコさんも自殺を考えずに済んだかも知れない……ですか?」
「ああ。そういったエネルギーをもっと別の方向に向けてだな――」
「女番さん。石油で車は走りませんよ」
食べ終えたパンの袋とジュースの空パックを鞄に入れる。そこら辺に投げ捨てたりはせず、どこかのゴミ箱に捨てるのがマナーだ。
「……なんか、あいつに似てきたな」
「目田さんにですか?」
まあ、影響は受けているだろうけど。
「そういえば女番さんって、目田さんとは昔からの付き合いなんですよね。学校も同じだったんですか?」
「まあな」
「じゃあ、僕くらいの時はどんな高校生だったんですか?」
ふと気になって尋ねてみる。あの人の過去や私生活は謎の部分が多いのだ。
「……まあ、今とあまり変わりねえよ。真っ白な改造学生服を着て、勝手に探偵クラブを立ち上げて、毎日のようにバカやってたな」
「女番さんもですか?」
「あたしはその頃、ひたすら喧嘩に明け暮れていたな。いっぱしの格闘家を気取って、手当たりしだいにな。そのせいで随分と周りに迷惑掛けたよ」
「それがどうして目田さんと?」
どうも共通点が無いように思える。
「まあ、色々だ。とにかくあたしはあいつのおかげで道を踏み外さずにすんだ。でなければ警察官になんてなれなかっただろうな」
「へえ。そうだったんですか」
僕は素直に感心した。
「さて、世間話はこれくらいにして。これからどうするんだよ。そろそろケリを付けたいところなんだがな」
学校も病院も全面禁煙だからか、そろそろニコチンの欲求が抑えきれなくなっているのかもしれない。先程から火の付いていない煙草をペン回しするようにもてあそんでいた。
「そうですね。じゃあ、もう一度屋上に行ってみたいと思います」
それでも何も分からなかったら、今度こそ自殺という事で決定してしまうだろう。
「よし。なら行くぞ、相棒」
「はい」
謎を解く手掛かりは、既に揃っている気がするのだ。
***
捜査員も引き上げていて、屋上には全く人気が無かった。
落ちたと思われる場所のフェンスに近付くと靴が無くなっている事に気付いた。もう警察に押収されてしまったのだろう。
「チョークで印は付けてあるから大丈夫だ」
僕の考えを読んだのか女番刑事はそう言って指差した。
その場所に立つと、僕は覚悟を決めてフェンスに足を掛けた。
「おい、何をするつもりだ?」
「ちゃんと向こう側に立たないと分からない気がするんですよ。最後に何が起きたのか、それが知りたいんです」
フェンスを乗り越えて慎重に縁の上に立つ。
「ったく、しょうがねえな」
女番刑事もやれやれと言った様子で続けてフェンスを軽く飛び越えた。僕と違って物怖じしていないのは流石と言える。
「ここから落ちたのか……」
フェンスを一枚乗り越えただけなのに、風景ががらりと変わって見えた。ちょっとした風すら、自分の身体を外に押し出してしまいそうで怖かった。
「何か分かったか?」
だからどうして平然としていられるんだ、あなたは。
「いえ、特には……」
下を見るのもおっかなびっくりで、とてもじゃないがまともに頭が働かない。とりあえず向こうに戻ろうとしたその時だった。
「ぁ……」
足元から、何かの声が聞こえた気がした。
「どうした?」
「何か……聞えませんでした?」
「いや、何も聞えなかったが」
「聞えましたよ! あれは生き物の声だ!」
僕は縁に腹ばいになって下を覗き込んだ。
「どこだ……? どこにいる!?」
「おい! 危ねえぞ!」
女番さんの警告に構わず僕は半身を乗り出して探し求めた。
「ぁ……」
また聞こえた。今度は女番さんも耳にしたらしく、身体を硬直させていた。
「……居た!」
それを見付けて思わず手を伸ばしたところで、僕はバランスを崩してずり落ちた。
「バカ!」
びん、と空中で身体が止まった。
真っ逆さまに落下しかけたところを、女番さんに足を掴まれたのである。
「何やってんだ! てめえは!」
そのまま一本釣りのように思いっ切り引き上げられて、反動でフェンスの向こうまでふっ飛ばされる。本当に凄い力だ。
「ぐえっ」
僕は床に叩き付けられて情けない声を上げてしまった。
「ったく! 正気か!」
女番さんもフェンスを飛び越えて、憤然極まり無い様子で僕の頭を手加減抜きで殴った。
「すみません……。でも、助かりました」
「助かりました、じゃねえよ! 一体何を見付けたんだ!?」
「これです」
僕は胸にしっかりと抱いていたそれを女番さんに見せた。
「……猫?」
「はい。それもまだ小さい、仔猫です」
屋上の縁の下にあった換気口のカバーの上に居たのである。下からではカバーが、上からでは縁があったので今まで誰も気付かなかったのだ。
「にぁ……」
三毛猫の子供が小さな鳴き声を上げた。あんな不安定な場所で、よくもまあじっとしていられたものだ。
「お、おい。触ってもいいか?」
女番刑事はなぜか目を輝かせて懇願している。どうやらこういう類には目が無いようだ。
「はい。どうぞ」
「おおっ……」
僕から仔猫を受け取ってそっと抱き上げる。さっきまで不機嫌さはどこへやら。今は至極ご満悦の様子である。
「屋上に段ボールとタオルがあったって言いましたよね。それってもしかして、セットになっていたんじゃないですか?」
「ん? あ、ああ。段ボールの中にタオルが敷かれていたが――」
そこまで言い掛けて女番刑事も気付いたようである。
「ここで、飼われていたのか」
「そうです。屋上に出入りしていたのも、服に付いた動物の毛もそれで説明が付きます」
家でも学校でも居場所の無かった彼女には、ここが唯一落ち着ける場所だったのだろう。
「だから、自殺ではなく事故なんですよ。確かに自殺をしようとしたかもしれませんが、サイコさんは思い止まった。おそらくそれは、その仔猫が居たからでしょう」
仔猫は純真な瞳を僕達に向けている。あれに見詰めながら死ぬのは、相当の気力が必要であろう。
「でも、落ちたんだよな」
「それはその仔猫を救う為です。何があったのかは想像するしかありませんが、結果として仔猫は屋上から落ちてしまった。フェンスの下には隙間があるから仔猫だけでも出入りは可能です」
ご主人様を救うおうとしたのか、ただ単にじゃれようとしたのか、それは分からない。だが、仔猫を巻き添えにするような真似だけはしなかったと断言出来る。
「それを助けようとして……自分が落ちた。右手の指の痕と脱臼はその時か」
「そして仔猫は安全な場所にと換気口の上に置いた。片手でぶら下がっていたら、屋上に戻すのは困難ですからね」
「……何とも、皮肉な話だな」
確かに皮肉な話だ。
逢瀬再子。
もっと早くに僕と出会っていたら、という考えは無意味だ。過去は過去でしかなく、死んだ人間はもう存在しないのだから。
でも、最後の最後で僕らは出会った。
それだけは何か運命的なものがあったかもしれない。
今なら分かる。
彼女は僕に、こう言い残したのだ。
『――たすけてあげて』
投稿者 緋色雪 : January 24, 2007 02:00 AM